仮の楽観的考察

車窓の写真をコンデジを使い始めた、多分2004年くらいから、ずっと機会がある度に車窓からの写真を撮り続けていて、このくらい長いこと続けて、多分、万を越える駒数の写真データを残してきていれば、何かに到達するとか何かを会得するとか何かの境地に達するとか、そんなことが起きても良いのではないかとも思うが、志がない行為にはそんな素敵なことは決して起きない。何故に起きないのか?それはもっと上(上と言う位置付けを前提にすること自体がもうすでにダメな感じである)にはこう言う写真があるはず、あるいは、いつかはこう言う写真が撮れるはず、と言う目指すところがまったくなくて、習慣化したマンネリ的な手法のもと同じやり方を繰り返し続けているからに違いない。
一度の長距離乗車で百枚か二百枚かの写真を撮って、SDカードからパソコンにその写真を読み込んで、大抵はただ一回だけ、スライドショーで見るだけ。あるいは、ブログに載せるためにもう一回くらいは見直してブログにふさわしい一枚か二枚を選ぶだけ。それで、以前にも同じことを書いたような気もするが、その日に撮った百枚か二百枚かのデータはもう見直されるチャンスがほとんどないままにハードディスクの闇深くに葬られるのだ。この撮ったあとのただ捨てているような行為を変更して、何度も何度も写真を見返しては考えなければ次に目指すものなどわからないのだ、きっと。
繰り返し繰り返し車窓写真を撮り続ける私を、別の私が嘲笑している。そんな感じかする。
しかし、そんな風に真面目一徹で見返してはどうするかを筋道立って考えていくといった論理的な思考を私は多分趣味であるる写真行為に求めていないのだ。だから、これでは堂々巡りではないか。

以上のようなことを考えたり書いたりしたあとに、乗っていた新幹線が降車駅の宇都宮駅に着いたので、ホームに降り改札をぬけて、人波と一緒になって歩く。歩きながらふと思った。
そんないい加減なことでいても、ときとして写真には、それが偶然のもたらした結果であっても、何かが写り込むことがあるのだ。その偶然は写真家の力量とは無関係なところにも舞い降りるのだ。
非効率かもしれないけれど、偶然のもたらしたものが、それが次への道標となり、必然になるのかもしれない。
それは写真の魅力だな、と思ったら、なんだか嬉しくなった。