古橋宏之写真展 土の終わり


写真は宇都宮線自治医大駅近くの車窓からの風景。

12月のなんにちのことだったか、平日に都内に出張する日があったので、その帰り道に神保町のwhiteと言う小さなギャラリーで古橋 宏之写真展「 土の終わり- untitled fire 」を見てきた。前作同様モノクロームの大判フイルムを使って多摩川中流河川敷で撮影されている。増水すれば水の流れに飲まれてしまうだろうその場所には様々な草や低木、あるいは河川敷でも育つことのできる例えばニセアカシアのような木々もあるのだろうか、いわゆる藪、最近は藪などとは言わずにブッシュと言ったほうがわかりやすいのかもしれない。そう言う場所に古橋さんは大判カメラを担いで踏み込む訳である。釣り人や、行政の河川監視のような見回り仕事の方などか使う小路くらいはあるのだろうか。誰かが設計した小路ではなく、たまたま藪の切れ目などを辿って流れの縁に到れるように出来た小路かもしれない。前作、古橋さんが銀座のNikonサロンに展示した河川敷シリーズもそう言う場所に踏み込んだシリーズで、少なくとも晴れた日の写真はなかったと思う。たしか、ご本人が日の光が差して欲しくないと言っていたのではなかったか。晴れを避ける、にたいして、雨だけを選ぶ、と言うのはだいぶん積極的なこだわりだろう。今回の作品では雨が降っている。しとしとと、ざあざあと。小雨か雨か。決して豪雨ではないようだ。これははっきりとはわからないが強風ではなさそうだ。どちらかと言うと風はないなかに空からひたすらに、もう二度とやまないような気にさせる雨が降っている。そう言うのが撮影の条件だ。かといって写真には雨を積極的に示すような写りかたはしていない。簡単なテクニックとして少し暗くなった時間を選んでストロボを使って雨粒を見せることは出来るだろうが、そんなことはしていない。マクロレンズを使って葉や花の上の雨粒やそこに写り混んだ回りの世界を見せたりもしない。川の流れや水溜まりに落ちた雨の作る水紋も撮らない。それでも写っている木々の葉や枝の光り方には雨ゆえの写りかたが起きているのだろう。だか、それはダイレクトにはどこがどう写っているから雨だ、と言うような強い結び付きと言うか推測を強いない。晴れた日の同じ場所の写真が対比して示されていれば、そこから雨だということはやっとわかるのだろうか。だけど、具体的に雨を示していなくても展示された写真に囲まれていると鑑賞者の心の、無意識などこかが湿度を感じている。
古橋さんが写真展に合わせて書いているステートメントには

『作家ステートメント
 上流の左岸で堤防を補強する工事が始まり、大量の石を使って一時的に川筋を反対側に蛇行させていた。河川敷で湧いて、川に注いでいた水は涸れてしまい、その跡には玉石が道のように連なっている。そこだけ筋状に草が生えていない。流れの緩い湧き水が玉石を運んできたとは考えにくかった。石径の両脇に生えている草の根元を掘れば、やはり玉石があるだろうか。低い場所に落ちた種は流されてしまい芽を出せなかったのだ、と思った。
 カメラを三脚に載せて、大きなビニール袋で全体を包み込んだ。それからレンズの位置に穴を開けて、冠布をかけた。傘は三脚に直接取り付ける工夫がしてあった。機材の準備が終わると傘を開いて、体の正面に抱きかかえるようにして持ち運んだ。雨が傘にあたる音がした。風が吹いて、自分の体は雨に濡れているのだとわかった。足許に石の感触と、石と石が擦れ合う音がした。堰から落ちる水の低い音は、遠くから聞こえていた。全ては現実だった。そして、目で見えている、両側の耳より前のことが現実の大半だった。耳より後の反対側がどうなっているか、考えていなかった。
 石に沿ってしばらく歩くと、比較的広い視野の中から特別な風景が現れた。自分を境にして、その前後左右からの見え方がまったく異なるという経験がある。自分の体とカメラの位置関係、目線の向きや目の高さに気をつけて、なるべくレンズが眼と同じ状態になるよう、繰り返し確認をした。同じになりようがなかった。僅かに立つ場所を変えても、あるいは僅かな時の間にも、空間は様々に変型する。そうして、フィルムには多くの類型が保存されていった。』

古橋さんは観察している。自分と雨と風景と言うより自分取り巻く外界を。工事のせいで枯れてしまった水の流れの跡に残された小石を見ている。その小石から何か具体的に考察したことをこの作家ステートメントはあまり明確には開示したり表明したりはしていない。だが、このステートメントを読んだ私は、そこに書いてないのにもかかわらず、時間のことを痛感してしまっていた。残された痕跡、残された小石。その様子が目に浮かぶと、そのことからどう関連しているのかと問われれば明確な論旨などないままに長い長い時間を感じたのだ。それは川の流れが時の流れの比喩に使われることが多い、とか、上流から下流への川の変化が人生のようだ、などと言うありふれたドラマではなくて。むしろ、何か化石標本を見たような。
会場には古橋さんが撮った撮影行を記録した動画も流れている。動画からはボソボソと傘に当たる雨の音が聞こえてくる。この音は行きすぎない効果音になっていた。見終わって階段を降りて、冬の夜の神保町に出る。暗い町に迎え入れられるところもまだ写真展の延長の時間のようだ。余韻が引く。