relax


以下の文章は中高年太りに関する考察であり、何でこんなことをわざわざ書いて、しかもblogで公開する意味があるのか?書いてアップしてる張本人なのに訳がわからない。
はっきり言って、読む価値なんかどこにもないです。なので、どうか、読まないでください。

先日、とある温泉で体重計に乗ってみたら、昨年2015年の3月だったかな、会社の定期検診で測ったときの結果より6キロも増えた数字が出た。2014年の12月に、ノロウイルスにでも感染したのではないかと思うような三日三晩続く激しい下痢に見舞われた。このときは妻も同じ症状になり、二人で都内某観光地へ行ったときに、屋台の店で買って食べた肉巻きみたいなのが原因に違いないと、素人判断では、そう言うことにしている。それで、その後もしばらく食欲がなかったこともあり、体重が3キロくらいは落ちた。だから、2015年3月の測定値は例えば2014年の数値よりも低かった。と言う背景があるにせよ6キロも増えている。これは体重計が壊れるかゼロリセットがずれたかしたのだろうと結論付けてすぐに忘れていた。帰宅してから何日かして、風呂上がりの脱衣場で、そこが家の体重計の定位置に当たるタオル等を入れてある小さなケースの下の隙間から、クリーム色のそれの端っこが見えているので、温泉で出た数値が間違いであることを一応確認しておこうと、ずるずる体重計を引っ張り出して乗ってみた。その結果、温泉の体重計が壊れていたのではなく本当に私の体重が増えていることが事実として突き付けられたのだった。
しかし重くなったことをあまり自覚出来ないのは何故なのか?ズボンが一律にきつくなったこともない。身体が重くなって歩いたり階段を上るのが急に辛くなった自覚もない。年相応には辛いのだが。
そう言えば何年か前に、身長や性別だけではなく、年齢に応じてもあるべき体重は変わるもので、この研究成果を反映した「長生きするためのあるべき体重の計算式」が発表されたんじゃぁなかったかな?と思い出したので早速にネットで調べると、身長と年齢を入れてクリックするだけで、あるべき数字が出てくるページがすぐに現れた。そこで計算してもらう。これはクラウド様に計算してもらっているのかな、クラウド神かな、風神雷神図が浮かぶな。
結果、6キロ増えた今の数字が長生きのためのあるべき数値範囲の中にちゃんと収まっているし、どちらかと言えばその範囲の中心値よりもまだ少ないのが今の私の体重なのだった。それでなんだか安心して、このままでもいいかぁ、と思ってしまう。
この計算式のページの下の方にはコメント投稿欄があった。『私の家系はみなヒョロヒョロと背が高いのに細く、私も長生きのためのあるべき体重まであと12キロも増やさなくてはなりません。頑張って食べます。』などなどが投稿されている。それは家系なのだから無理して食べなくてもいいんじゃないのかな?と思った。
それでもなんとなく、私に関して言えば、少しは痩せた方がいいんじゃないかな、と言う思いが消えない。社食で定食を選ぶときにAからCのサンプルに添えられたカロリー値を見る。これは6キロ増えたその前も、もう何年も必ず見る。見た結果と、今日は何が食べたいか?と言う気分とを勘案しながら、選択をしていた。その勘案結果に微妙な差が出てくる。300キロカロリーの野菜と豆腐の餡掛けがAで、450のポークピカタプレートがBで、ミックスフライは700キロカロリーのCだとする。これに普通盛りのライスを足すとプラス300キロカロリーくらいか。今までだとBプラスライス小で700キロカロリーあたりを選んでいたことが多かったのが、今週はAプラスライス小でかつライスは半分残してみたりだ。500キロカロリー以下に抑え込んでいることになる。お菓子の間食もなんとなく止めている。これで一週間たつと少しは減少するだろうか?
30代の頃は夕飯の飯のおかわりをやめるだけですぐに体重のコントロールができたものだった。今は身体の新陳代謝とやらが減ったから省エネルギーで生きている。
てことは中高年老年になった方が環境に優しく生きることができる、とこう言うことになる。なのにそれに気付かず、若い頃と同じように食べてしまうから問題なのか?
いや、年とともに嗜好も変わるし、肉から魚や野菜とかね、あるいは食べられる量も減っている。明らかに。それでも体重は増える。必要カロリーは嗜好や量の変化でもまだ充分になっている。超高効率生物だ。

逗子の古書Tの入り口辺り、雑誌のコーナーがあってその中にはrelaxも沢山ある。もう15年くらい前のサブカル的(って言うそうだ)雑誌。現在、同時代としてサブカル最先端の人が読めば15年分古くさくて、それは即ちダサいのか?あるいは目まぐるしく変わるそう言う流行の先端はくるくるとリバイバルや再評価やノスタルジーが表に再登場したりもするだろうから、既に「懐かしく」「改めてみると新鮮で」「悪くないね」と言うことになってたりもするのか?まったく、私にとっては15年なんかちょっと前に過ぎないのだが。
時間が遅く流れる、と言うことは、言い方が違うだけで、時間が速く流れる、と同じだったりする。15年もたってもその間にいろんなことは、結局あまり変わらないと感じるのは、本質が同じで表面しか変わってない、と達観か諦観か、あるいは本質がわかってしまったからか。これをどう言うか。本来はもっと変わるべきなのに何も変わらないように感ずる。期待する変化量を固定するとそこに到達するまでに思ったよりずっと時間がたくさん流れて(掛かって)しまう。これって時間が速く流れるってとか。仕事を例にした場合には、ある仕事が5時までに終わると思ったのに7時まで掛かってしまったら「もうこんな時刻!」って言うわけで、やっぱりこのときは時間は速く流れると言うのだろうな。
でも同じように期待する変化量が少ないときに、時間がよどんでいる、とか、時間が止まっている、とか言う。これは即ち、時間が遅く流れると感じてるってことだ。
変化を起こす主体が自分自身であるときに、目標時間内に所望の変化が起きないと、時間が速く流れると思ったりする。変化を起こす主体が自分自身ではなくて、自分は傍観者であるときに、変化の起きていないものを見ると時間が遅く流れると言ったりする。
そう言うことか。
あるいはそこで問題にする時間の長さが数時間を言っているか、数日を言っているか、数ヵ月を言っているか、数年か、数十年か、それにもよるのか。
私は15年前のrelaxを読んでも、今はもう廃刊なのでいかんともしがたいが仮にここに最新号のrelaxがあったと仮定すると、どちらを読んでもなんだか自分とは縁遠いところにサブカルの先端があって、なんだかようわからないけどねとか思いながら垣間見る感じでペラペラめくって、字が小さいからよく読めないので、写真やデザインだけなんとなく見て終わる。
それでもそのペラペラが悪くないので、ときどきrelaxの古本を買ってしまう。