雪の少ないありふれたような富士山


この文章を書いているのが1月24日なので日本列島は大寒波の真っただ中にあって、奄美大島では100年以上降っていなかった雪が降ったそうだ。富士山はこの写真を撮った1月10日前後の頃とは様変わりで、ずっと裾野の方まで真っ白な雪に覆われている。
 繰り返すが、ほんの十日ほど前(1月10日前後)この写真のように富士山には雪がほとんどなかった。暖冬だ暖冬だと騒いでいたくらいだ。

 この通り、富士山がよく見えるとある観光地の小さな山の上から見た富士山は絶景の富士山ではなかった。雲一つなく全容を見せた富士山ではなかった。あるいは、傘雲や、私の知らない珍しい雲をまとってもいなかった。夕日だか朝日だかに赤く染まる紅富士の現れるようなこともなかった(そもそも時刻が違っている)。たなびく雲の上にこうして少しだけ、雪のまばらな山頂を見せては、またたなびく雲の中に消えて行く。春のような日で、富士山は霞み、ぼんやりしている。
 一枚の富士山の写真を観て第三者が感動するのは、そこに写っている富士山が特別に美しい、誰もが見ることができるわけではない瞬間が捉えられている、そう言う写真なのだろう。それを、そう言う瞬間を根気強く待つことが出来て、計画性に富んでいて、用意周到な、一流の富士山写真家が、そこに立ち会えないみんなの視覚を代行してくれて写真に撮り、写真集や写真展などの機会にみんなに見せてくれる。みんなは「すごい」と思う。
 だけれども、その写真集のなかの一枚に写された富士山よりも、こうして現にその場所に私がいて、そのときの五感で感じられた空間の中にいた、そうして私が見ていたこんなありふれて非決定的瞬間を撮った富士の方が、自分にとってはずっと大事なんだろう。その私の大事さをを誰かに共有してもらったり、わかってもらったりすることは不可能なのだろうか?私と同じように観光地の富士山が見えるビューポイントに行ったものの、そこから見えたのは絶景の瞬間の富士ではなく、こうしたぼんやりした富士山でしかなかったと言う経験をした第三者を仮定すると、その人はこの写真を見て、絶景富士写真を見るときとは別の回路が働いて、共感をしてくれるかもしれない。それは共感と言うよりも個の記憶の入り口の機能が発動するってことだろう。
美しく神々しい特別なモデルを撮った第三者が見て共通的に良いと思ったり素敵と思ったりできる人物写真の一方で第三者的には全く面白くないかもしれない、特別に素敵でもなく美しくもなく、言い換えれば凡庸で普通な市井の人が写っている人物写真が、その人の家族や知人からすればモデルを撮った写真よりもずっと大事である、と言う家族写真の持つ家族内でだけ発揮されるパワーを、その家族内だけにとどめないで敷衍するようなことが出来れば、それは撮る側の技術なのか観る側の技術なのかわからないけれども、そう言うまぁ決定的の反語が、ありふれた、とか、いつも通り、とか、ありきたり、とか、よくある、でもなんでも、そう言う方を良しとする写真の価値があってもいいんじゃないか。
 とかなんとか、このブログにも同じようなことをいっつも書いている。

 私写真としての富士山風景写真。

決定的な富士山を用意周到に撮るようなことが面倒で出来ないししない。ただそれの言い訳に過ぎないのかな。