水族館


 水族館は観客を楽しめるように工夫をこらしてあって、その工夫も含めて展示物を接写したりすれば、あるいは水槽のなかの魚を撮れば、それなりに「いい感じ」の写真が撮れた気分になれるものだろう。

 上の写真は沼津の深海魚水族館で、水族館はさておき、沼津には、私が小学生のころに母の友人一家が住んでいて何回か母と一緒に、東海道線の下り電車に二時間弱揺られて遊びに行ったことがあった。このブログはいまは「続々」なのだが、初代の(?)「ノボリゾウ日記」の頃から十年くらい続けているわけで、人が思い出話としてこういうところに書くネタなんて六十年近く生きていてもものすごくたくさんあるわけでもないと痛感するのは、たぶん子供の頃に母と一緒に沼津に行ったことも何回か思い出しては書いているのではないか。
 こうして書くから思い出の「新鮮度」がリニューアルされて、忘却の彼方に消えていくことを留めているかもしれない。覚えているから書けるわけで、忘れてしまったら書けないけれど、書けないことを悔しく思ったりがっかりしたりすることはないはずで、何故なら忘れているのだからそう思うとっかかりすらないことになるので。だけど実際にはそうではないのは、消え残った雪のような思い出の欠片の思い出があったり、大きな出来事全体という雪原のような出来事(あるいは自分の人生)の全部を構成していたうちのあちらこちらで思い出が雪のように溶けてしまっても、木陰や吹き溜まりの雪が残るようにところどころ、それは思い出の中の「決定的瞬間」のような部分に当たるかと言えば実はそうでもないところが面白いのだろうが、そういう風に消えかかりの途中段階があるから悔しかったりなんとか思い出そうとしたり、あるいは思い出が「美化」したり「懐かしくなったり」する。そう言う吹き溜まりがどんどん溜まっていくってことと、いやいや溜めておける総量が一定なので新しいことと忘却を引き換えているようなことと、どういうことか判らない。
 ところで同じくらいノイジーな2015年の新しいロック音楽をいま初めて聴くと「うるさくて、私にはもう若い世代の音楽は合わなくて、聴けない」と感じたとして、それでは自分が10代20代に聴いていたロック音楽は、いまでも楽しく聴けるし、いいなあと思ったりもするし、だけどそれを科学的な音量やリズムやノイジーと感ずるなにかの科学的数字を測定すると、実はいいなあと思う古い曲の方がずっと「うるさい」なんて結果になるに違いない。
 いつどういう状態で記憶されたか?その記憶の構成要素が今自分にインプットされてくるリアルタイムの五感情報をどういう感覚で受け取るかを決めている。
 あれ?沼津の思い出のことを書こうと思っていたのに、書いてないですね。
 タマムシクマゼミのことなんだけど。まあ、いいか、書かなくても。

 最近私のこのブログは記憶とか思い出が多く語られている、と友人が年賀状に感想をそう書いてくれたけれど、溶け残った雪のような記憶をたどっている。そこからの働きかけでリアルタイムや将来への希望も考えている。すなわち、雪が全部溶けないようにあることが生きているってことなのかもしれない。