雪が降る


 平日に単身赴任をしている宇都宮市の早朝6時、雪はちょっと前に降り出したのだがみるみると路面を白く埋めて行った。
 平日の夜は、炬燵に入って、レンタルDVDをたくさんみる。それがいつも通りの冬の日々。


数年前にNHK-BSで放送された1966年制作の日本映画「あこがれ」をDVDに録画しておいたものも久し振りに観た。放送されたときに録画しつつも観たのだろうか?ちゃんとは観てないような気がする。ストーリーを覚えていなかったし、特に後半は観た感じがしなかった。だけど、一方で、録画しておいたものを何年かしてから初めて再生した、と言うのも違う感じ。小沢昭一扮する日雇い作業員のおっさん、彼は当時16歳か17歳の内藤洋子扮する主人公の父親役なのだが、映画の前半に内藤洋子の子供時代を演じている林寛子を連れて雨のなか孤児院に連れてくる場面がある。そこはなんとなく覚えているから何かの理由で途中まで観て、最後まで見終わらないまま何年か経ったのかもしれない。もし、全編観たのにここまで忘れてしまっていたのだとすると、先が思いやられる。と言うよりも、ゾッとする。
この映画のロケ地は平塚市横浜市だ。そして私は二歳の時、1959年から高校を卒業する1975年まで、いや、学生時代は名古屋で下宿をしていたとは言え、長い休みには家に帰っていたので大学を卒業する1979年までと言う方が正しいかもしれない、それだけのあいだ、即ち幼少から青年期を、この映画のロケ地である平塚市で暮らしていた。
わざわざDVDにまで録画しておいたのはそれが理由だったのだろう。
大人になって作業員の父の仕事場の移動に従って町から町へ動いていく内藤洋子がその夏には平塚にやって来る。そして同じ孤児院で過ごし大人になってからは平塚の陶器の店に養子として迎えられて幸せを掴んでいる田村亮と出会うところから物語が始まる。
私は、いつものように物語を追いかけながら映画を見るだけでなく、1966年当時の、映画の背景に映っている平塚市の景色を観ている。平塚駅西口の北と南を繋ぐ跨線橋が映る。今もその跨線橋・・・と言う単語が良いのかな、今は階段のある通路って感じなのだが・・・はある。映画ではその跨線橋から、そのしたに広がる操車場がちらりと映る。貨車の入れ換え作業が行われていた操車場に小学五年か六年のときに同級生のオザワ君やハラダ君と一緒に社会の自由研究のために訪ねていき、すぐに普段は入れない場内を説明を受けながら案内していただいたことなどを思い出す。今は駅ビルの駐車場か何かになっているのではなかったか。三人の小学生を課長さんだったか職場長さんだったが連れて歩いているのを見て、操車作業か貨車の荷物の出し入れの力作業をしていた男が「課長がガキ連れてきたぞ」と言った。そのことを覚えている。
あるいは、同じ西口から少しだけ歩いた国道1号線の交差点の角にあったカメラ店も映画のある場面でちらりと映る。何度も現像を出した店だ。モノクロフイルムを密着プリント付きで。
そう言う風に懐かしい場所が映るので余計に面白いのだが、何よりもびっくりしてしまうのは平塚の商店街を行き交う通行人が大勢いることだった。全員がエキストラって感じでもないし、ビルの上から俯瞰撮影された、そこに小さく映った人々がまさかエキストラではあるまい、商店街も活気がある。
1966年、私は9歳。その年の1月、三学期が明日から始まると言う日に急性腎臓炎にかかっていることがわかって市内の病院に入院した。三学期は全部休んだが、何か計らいがあったのか四月には次の学年に進級出来た。
映画はセットで撮影されたところもあるだろうから、助演の田村亮が住んでいる陶器の店が本当に平塚の商店街にあったわけではないだろうが、平塚の旧国道1号線沿いの商店街のエリアは私の小中学時代の学区だった。スーツなどの男性服を扱っていた洋服屋のコバヤシ君、女性服を売っていた方の洋服屋のモリイさん、魚屋のモリカワくん、別の魚屋のヤナギダさん、床屋のイデくん、ガラス屋のイシカワくん、八百屋のスドウくん、米屋のキッカワさん、何でも屋のイソザキさん、写真屋のニノミヤくん、牛乳屋のカワグチさん、和菓子屋のカワサキくん。他にも大勢。商店街の全ての店に子供がいたように思えるくらいだ。
私の出た小学校の今の生徒数や学級数を調べてみたら、各学年100から120人で、3から4クラスと言ったところのようだ。私が在校していた1960年代、一つの学年は6クラスだったと思う。児童数はおよそ半減。
しかし、ウィキペディアによれば平塚市の人口は1970年に16万人、それが今はおよそ26万人になっている。いくら人口ピラミッドが変わって子供の占める割合が低下したとしても、子供の絶対数が半減してるとは思えない。なので私の出た小学校、駅北口の国道1号線の周りの商店街を含む学区では子供が半減している、ってことなのだろう。
上に書いた多くの同級生の店は店仕舞いをしてマンションや商業ビルになって、一階にはどこの町にもある何かのチェーン店が入っている、そんな変容を遂げたところも多いのではないか。いちいち同級生のいた商店を見てあるいた訳ではないが。彼等はビルのオーナーになったか土地と店を売ってから町を出たのか、同窓会も出ずに付き合いもなくなっている私にはわからない。
駅に近い商店街がさびれて来て、私の出た小学校の生徒数は減った。でも人口は倍まではいかずとも6割くらいも増えた。多分、駅前の商店街の学区ではなくて郊外のどこかの小学校では生徒数が増えている。あるいは、マンションが増えて父が横浜や都内に通勤する家庭の子供たちは、まだ小学校に上がるよりも小さい子が多くて、これからまた生徒数の増加が予想されている、なんてこともあるのか。大型マンションの完成に伴って一つの学校に生徒が急増しそうになり学区の線引きを変えた、なんて実例の噂(実例の噂、って変だけど)も聞いたことがある。
郊外、例えば平塚市から都内や横浜に通うサラリーマンは駅ビルで買い物をして帰ったり、独り身ならコンビニで弁当やビールを買ったり、あるいは、土日に車で郊外の商業施設に乗り付けて一週間分の食材を安くまとめ買いするだろう。こんなのはどこでもみんな同じ。映画に映った人口は16万人にも満たなかったのに活気に溢れ大勢の人々が歩いている光景は26万人にもなったとしても見られない。
そのうちに郊外の大型商業施設ではなくネットで買い物をする方が主流になれば、多分、なるんだろう、街の景観はどう変わるのか?
映画では平塚市と隣の大磯町の境にある高麗山と呼ばれる丘陵地帯のはしっこの標高300メートルくらいの丸っこい山もちらりと映った。山を覆う木の種類が酸性雨の影響から随分と変化したと言う話は何回か聞いていた。新聞の記事かTVのローカルニュースで聞いたのか、どちらかだろう。
暮らしの中で、映画でちらりと映るように、ときどきちらりと高麗山を見る。いや、新緑や桜の頃には高麗山にカメラを向けることもあるから、ちらりと、だけではない。そう言う風にずっと見ていて、だけども真剣に変化を観察しながら見ている訳でもないから、かえって植生が変わったことなど気付かない。そんなところへ1966年の高麗山を映画の画面で見せられた。高麗山は今よりもイガイガしていて高い木が多いように見えた。ちらりと、だから、間違ってるかもしれないが。
他にも驚いたことがある。映画の中では横浜港からブラジルへの移民船が出ていく。私は移民船は戦前のものだと思っていた。調べてみると70年代の前半まで続いていたことを知った。
吉田拓郎集団就職で東京に出てきた新卒の若者のことを「制服」と言う曲で歌ったのが、考えてみれば70年に入ってからだ。自分はそう言う集団就職とか集団移民とかを身近に見る環境ではなかったから知らなかったと言うだけなのかもしれないが。いずれも随分と最近(70年代を最近と書くこと自体、我が年齢を痛感させるわけだが)まで続いていたんだなぁと思わせる。
主人公の内藤洋子と田村亮は映画の物語で孤児院で育ったことになっているが、いろんな事情でそう言う施設で育ったものの、片親は少なくとも生きていて、本人や孤児院と繋がりが残っている。こう言うのを孤児と言うのか?などとつまらないようなことに拘泥したり。
ラスト、若い二人が波打ち際を走る。この青春映画の典型的な場面を、アホらしいと、多分、十年か二十年前の私ならそう感じた。今は時代の典型は懐かしくて、物語から離れて「へえ、いいねぇ」と思う。

以下はその他の観た映画の例。

ダブリンの時計職人 [DVD]

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