写真展巡り


 1/23土曜日、都内写真展巡りをする。
1池袋 東京芸術劇場 森山大道写真展
2新宿 B Gallery 岡田敦「1999」
3南青山 Norton Gallery 安井草平「存在の耐えられない輝るさ:INDIGO」
4神宮前 アートスペースAM 森山大道「DAIDO IN COLOR」
5代官山 ヒルサイドテラス 柿本ケンサク「TRANSLATOR」
6代官山 Gallery SPEAK FOR MARCO「Innocent Blue」
7中目黒 VOILLD 江崎愛「Oldie」
ほかに表参道のルイ・ヴィトンのギャラリーで、建築家フランク・ゲーリー「パリ-フォンダシオン ルイ・ヴィトン建築展も。

写真展をたくさん見た。森山大道の二つの写真展、特に東京芸術劇場の展示には圧倒されてしまう。森山大道東京芸術劇場の展示は、入って右の壁には1980年代の、森山大道復活の証明となった「光と影」が飾られて、そこから正面の壁に回り込むように「網目の世界」へ、左の壁には新作を含む「通過者の視線」と言う順になっている。一つだけの大きな部屋に三つのシリーズを区切りなく入れるのは、ダイジェスト展示のような、音楽のアルバムで言えばベスト盤のようなものになりそうなところで、写真家の概要を簡単に知ることは出来ても、音楽で言えば一枚一枚のアルバムにこめた思いやコンセプトに相当するような写真作品のシリーズごとの全作品からなることで初めてトータルな表現が完成しているのだとするとその一つ一つの作品意図は「ベスト盤」では損なわれる危惧があるのではないか。だから大きな美術館、大阪の国立国際美術館や初台のオペラシティなどでの展示では部屋ごとに区切りをつけるようなことでベスト盤と言うよりお買い得な「オリジナルアルバム全盤パッケージ」のように対処していたのてはないか。東京芸術劇場の展示は、もちろんそう言う「ベスト盤」的な展示の性格も少なからず有るのだろう。それでも、例えば「光と影」の全点展示ではなく選抜展示だったとしても、一枚一枚の写真の方からこちらに「投射してくる」・・・なんて言い方しか出てこないのだが・・・「繰り出される」ってのもありかな、そう言うパワーに圧倒される。音楽であれば楽器や声やそれを記録したスピーカーの振動波が、空気中を伝搬して来て耳の中の鼓膜にその振動が届く、と言うのはいかにも音(振動波)をもってこちらに仕掛けられて、聴く方はまずは受け身で、だから「繰り出される」って感じがわかりやすい。森山大道展で、写真と鑑賞者たる私のあいだには、それは「聴く」ではなく「見る」なのだが、音楽のそれと同じ関係から始まっているように思える。写真から繰り出されたものを押し返すような思いがこちらの心に起きているから高揚が発生するのだろうか。
 便宜上「鑑賞者」なんて単語を使ったが、そうじゃない。例えば対戦相手とか、そんな感じなのだった。
しかも最新作のカラーによる「通過者の視線」が、まぁ私が写真趣味で日々撮っている写真がカラーであることもあってなのか、しかも撮影場所が同じそこらの街角なのに、全く違うエネルギーをまとっていて唖然としてしまう。「通過者の視線」を観てから「光と影」に戻ると「光と影」は端正でお行儀の良い作品に思えるくらいだ。相対比較をすると。

 私はもう五十代後半の世代で、だからもっと若い人たちの感性とは全然違うかもしれないのだが、この日に観たほかの写真展のいくつかは、、、いや、この日観たなかにはそう言うのは実際には少なかったのだろうが、、、私のなかで、最近は新しい作家の写真展を見に行っても『きれいごとのように澄まして写真を並べたり、すでに新しさも感じられない「またこれか」と思うような、ティルマンスの初期作品を真似たような、多くは海外を舞台にして若い仲間たちとの(ときにはセクシャルな香りも漂う)日常のスナップを見せたり』していて、私はもう飽きてしまって、またこれかよ、と感じるようなことが多くあって、そのうちになにを見ても、もしかしたら詳細に見たらそうでない良さがあるのに懐疑的になっていて、面白くないことが多い。ニューカラー風の撮り方もいつのまにかマンネリ化してきているようで、広大で高精細な大型プリントで見せられる風景写真も、もう飽きてしまった感じがぬぐえない。そしてそう言う「飽きて曇った私の目」を覆し開かせてくれる写真展にはなかなか行き当たらない。

 そんななかで安井草平と言う方の写真は印象的だった。会場にご本人の書いた文章も掲示してあったが、それと同じ文章はギャラリーの展示案内などにも掲載されておらずあらためて読むことが出来ないのが残念。たしか写真家の父上が学者だか教師だかで家に様々な(理科っぽい)モノが置かれていたというようなことが書いてあった。モノと言うのは鉱物とかだったのだろうか。うーん、本当に忘れているなあ・・・。そんなモノの中にほとんど記憶に残っていない亡くなった祖母の写真があり、と話が進み、その先がどう書いてあったのかよく覚えていないわけで、じゃあこんな中途半端なことをここに書くこと自体が失礼なことなのだが、だけど飾られた写真が被写体そのものの種類の共通性ではなくて、作家のそういう幼いころからの経験に基づく共通の価値視点があると言う共通性で集められていて、それが面白いのだろう。透明感あふれる硬質な響きを感じる写真群だったと思う。
例えば、子供の頃に波打ち際で、海水に濡れた小石が日の光を受けていて、そのたくさんある小石のなかには色や模様が、何かを彷彿させたり別世界に誘うように美しくて、それを見ながら、高価な宝石なんかよりも水に濡らしさえすれば現れる小石の美しさの方がずっとすごい!と思ったことがあった。乾いてしまえば消えてしまう、即ち、美しさが常時は定着出来ない、それだけが宝石より劣り、あとは優れているのではないのか?ならば僕(子供の頃のことなのであえて僕と書きました)だけの秘密として、小石の美しさを知っていよう。そう考えていた。
そう言った価値観の様なところに共感したのだろう。

 写真はアートスペースAMの入っているビルの玄関ホールです。