梅の写真とは関係ないことを書きます。

2000年だったかな2001年?長島有里枝蜷川実花HIROMIXと言う三人の若い女流写真家が揃って木村伊兵衛賞を受賞して話題をさらったのは。当時はあんまり、いや、全然興味が沸かなくて受賞作もまともに見なかった。見ないまま十年以上が経ってから、やっと最近(数年前)になって、長島有里枝の写真集「SWISS」に収録された作品を、雑誌の紹介記事で読んで興味を覚えたのだったろうか、ひと月かふた月に一度は実行している都内写真展巡りのひとつにピックアップし、広尾辺りかな、洒落たギャラリーに見に行き、その後、同じシリーズの花の写真にクレマチスの丘に有る美術館のグループ展でも出会った。そのうちに、にわかに写真集が欲しくなってとうとう写真集「SWISS」を買ってしまった。
昨年、文庫化されたときに読んだエツセイ集「背中の記憶」はすごく面白かった。昨年の夏に「5 Comes After 6」と言う少部数の小さな写真集を手に入れた。珠玉の(なんて適当な単語で誤魔化してるけど、とにかく、そう、珠玉の)作品だ。
そこで、時間を遡って木村賞を受章した頃の長島有里枝写真集「Pastime Paradise」をAmazonの古本で購入してみた。4000円くらいはした。当時は衝撃的だったとされるセルフヌードや家族ヌードにはじまり、暮らしの断片の風景をさしはさみながら、渡米し、恋人らしき男性が登場し、最後の方には三脚を立ててきっちりとセオリーに従って撮ったような風景写真も現れる。作家の時間軸に沿った、変化に富んだ数年分の出来事が、しかもその変化がいかにも若い世代の特権らしく、世界が広がっていく視点を持っていて前向きになれる、そんな写真集だった。
でも、これは今の私の感性の問題なのだろうか、流石に五十代のおっちゃんからすると、上記のような良さはこうして言葉として書きながら把握し、認識し、納得するだけで、もっと言葉より以前の段階で直感的にカッコいいとか憧れるとか、素敵とか、あるいは共感(自分とおんなじような生き方がここにもあることを見せられて泣かされたとか、そう言う一体感のような感動)はもう私には感じられなくて、残念だ。同世代の同時代ではないからだろう。同世代が同時代に同じ感性のもとこれを見ていたら、言い換えるととんがったところに属している「仲間」がその時にこれを見ていたら、言葉以前の共感が起きたのだろう。大人は判ってくれない、から始まるような、無自覚的かもしれないが反骨のメッセージも漂う、、、気がする。
そこからはじまり、最近作はそのとんがりが、子供の頃に習った「山の一生」のように、まろやかに低く、裾野が広くなっているかもしれない。
こう書くとまるで表現の斬新さを失ったと揶揄しているともとらえられかねないが、そうではなくて、人が歳を重ねるってことそのものが、その必然の成り行きそのものが、作品の変遷になっている感じがする。
こうして若い頃の作品から最近作まで見てみると時間の流れの中で人の人生に起きていく様々な変化、それは誰にでも当たり前に起きている訳なのに、それなのにその変化のあることを改めて確認させられる。それもポジティブに。長島有里枝の魅力はこう言うことかもしれない。
「Pastime Paradise」と言う一冊のなかに数年に流れた時間が見える。「Pastime Paradise」から「SWISS」「5 Comes After 6」と見ていくともっと高いところから俯瞰してやはり時間の流れが見える。私の見ていない他の写真集をめくるとさらにあいだが繋がるかもしれない。
家族を撮り続けると言うことはこう言うことなのだった。

Pastime paradise―長島有里枝写真集

Pastime paradise―長島有里枝写真集