雨上がる

28日の日曜に、先週のことを書いてます。
横浜みなとみらいのパシフィコ横浜でCP+2016を見た帰りに、近くのギャラリーでJCIIが主催だったのかな、広島長崎の被災直後の惨状を記録した報道写真展をやっていたので寄ってみた。数日前にネット通販で買った本が届いた。飯沢耕太郎が日本の写真家25人の残した文章を取り上げて解説している新書の本で、一番安価なのを買ったのだが、たしか1円だったかな、赤や黒のボールペンや鉛筆で線が引かれたり、達筆な字で書き込みがされている本でがっかりした。書き込みをした人がどの文章から何かを特別に感じたのか、何を知りたかったのか、何を連想したり思ったりしたのか、そんなことの欠片が伝わってくるのを面白いと感じる余裕はなくて、それより線に導かれて本から感じたり得たりすることが制限される、限定される、そんなのが嫌なのだ。書き込みなんかに惑わされない読書の力があれば良いのだが。そう言う自信はないし。
それでも買い替えるほどのこともないと、読みはじめた。通勤などの移動の電車やバスの車中で読む。寝る前にも詠もうとするが、大抵はほとんど読み進めないで眠くなる。
野島康三、萩原朔太郎安井仲治、福原信三、と読み進みCP+に入場する前までに山端庸介の章に入っていた。山端庸介と言う写真家の名前はこの本を読むまで知らなかった。
JCII主催の写真展が上述のような内容であることは入場して最初の写真の前に立つまで知らなかったし、いま読みかけの山端庸介のことも結び付かないまま写真を見ていく。長崎の原爆投下翌日の、ちぎれたりこげたり折り重なったりした被災者の既に命のない身体が写った、もっとも惨状をリアルに伝える写真を前にしてはじめてその写真を取ったのが、まさに今日その名前をはじめて知ったばかりの山端庸介だと気が付いて、その偶然に本当に驚いた。
ある確率で偶然が起きる。もしかしたら、私は本で山端庸介のことを読んでいたから頭の片隅でいつもよりも報道写真への興味のようなことが増していたのか。そのせいで、いつもならスルーしたかもしれない写真展に立ち寄ったのか。そう言う伏線があった上に偶然の確率がたまたまヒットした。それだけのことなのだが、何か単なる偶然以上の力を感じたりすると、お導きを得て、とかなってしまうのだ。
実際は滅多に起きない確率のことが、ちゃんと滅多に起きずに起きるから、その滅多にびっくりしているってだけなのだ。

話題が変わります。
美術館でとても混んでいる人気の展覧会などで、一番飾ってある絵をちゃんと見ていけるのは最前列だけなので仕方なくそれの一員になり、ゆるりゆるりと進んでは絵の前を通過し、まて次の絵へとゆるりゆるりと歩む。そう言うとき、まだ次の絵が目の前にたとりつくずいぶん前からその絵を視線は捉えている。そしてだんだんその絵に近づいていくと、斜めからて、まだ遠くて、よく見えなかった絵がだんだんとはっきりと見定められるようになってくる。そして、ここが問題だと思うのだが、いよいよ絵が目の前に来て、そこまではその絵を見ていても、絵が目の前を通過すると、まだまだ次の絵よりその絵の方が見易くてかつ見るべきポジションにいるのに、その絵は終わりにしてまだまだ斜めで遠くにしか見えない次の絵を視線は補足している。絵の正面位置をゼロ度とすると、例えばプラスマイナス30度の範囲が「見るべき最適位置」とすると実際には、プラスが行きすぎたあとを示す符号だとすると、実際にはマイナス60度からプラス5度くらいにその絵を見ていて、プラス5度からプラス30度にいるときにはまだその絵を見るベストポジションにいるのにその利点を使っていない。
いや、そんな気がする訳ですよ。

本当の盛りはまだなのに二週間早く梅の花が咲いたというニュースにも影響を受けて、今年はもう三回か四回、いろんな場所に梅を見に行きました。でも、本当の盛りの日はまだちょっと先のような気がする。
上に書いた絵のことと似てるかもしれないと思ったのは、これだけ咲き始めの前期に梅の場所に通ったのに、多分、本当の盛り、満開の頃にはまぁ簡単に言えば「飽きてしまい」見に行かないに違いない。
桜は開花期間が短いから、こう言う飽きたとか言う感情も起きないので、誰も白けずに夢中になるのてはないのか。