今日もまた


ずっと写真集を眺めるのが好きで、いつの間にか部屋の中にたくさんの写真集が積んである。とは言え、千とか万と言う単位ではもちろんなくて、百冊とか小さなzineのようなものも入れても二百冊ってところだろう。ここひと月かふた月はその熱がいつもに増して高くてついついAmazonや日本の古本屋やその他のネット書店や、あるいは街の古書店で、欲しい写真集を探しては、また何冊かの写真集を買ってしまう。買ってしまうと自分がその写真集を持っていると言う状況に満足するせいで一回か二回、ささっとめくって、こんな単語はないだろうが「斜め見」して、それでおしまいなんてのも多い。小説も積ん読のタワーが出来ているし。歳を重ねるに連れて部屋に、なんでもいいけど「溜め込む」と言うのは人格や品格と関係があるのか?高潔な人ならばきっと部屋ひとつとっても清々しくなるのではないのか。
27日の日曜日。好天。今日もまたあてのないままカメラをぶら下げて家を出る。
辻堂の北口近くのビル4階だったかな、そこにあるBOOK・OFFにはじめて行ってみる。BOOK・OFFの面白いところは、私が探すような写真集は写真集って書いてあるところにはないってこと。写真集ってところに行くと女優男優やアイドルやモデルの主に水着や裸の写真から出来ている、写真家の名前は表に出ていないか、出ていたとしても女優やアイドルやモデルの名前と掛け合わされて×マークを介して並列に並べられているのが関の山の本が集められている。併記されているのはアラーキーだったり沢渡朔だったりそんな大御所の名前も見掛けるし、もちろん新進気鋭の人や、もっとも人気のある現役バリバリって写真家も。それそれにそれなりのコンセプトと、真剣に考えられたか、適当なのか、チャチャっとなのかはわからないが、一応は「他と違う」とか「被写体のらしさを引き出す」などの工夫があるのだろう。だから、女優やアイドルやモデルの人気が落ちて二束三文の値段になっても、実は見るべき面白さを秘めた写真集はたくさんあるのだろう。が、やはりどういう仕掛けや工夫があろうが女優やアイドルやモデルその人の魅力に、それもまずは外観的なことしかわからないから、可愛いか美しいかとか、セクシーかグラマーかとか、扇情的か小悪魔的かとか、清楚や儚さか情熱的かとか、個の魅力を見ることになる、それを引き立てるためのコンセプトや工夫となるのだろう。そして、当然この歳になればそう言う女性の個の外観的な魅力にはその瞬間にそれを愛でていても、固執してしまうことは多分もうなくて(若いときは森下 愛子とか好きだったなぁ)だから、BOOK・OFFの写真集のコーナーに行ってもどれかを棚から引き出して捲ることもしない。いや、どこかでこの手の写真集のなかにも必ずあるはずの新しくて面白くて魅力に溢れた写真集を紹介している信用できる記事でも読めば、また違うのかもしれないが。
BOOK・OFFでは例えば芸術と大分類された棚のあたりにさらに小分類て写真に関しての本が集められているところがある。店によってはこれが価格帯別で二ヶ所にあるかもしれない。私の探している、あるいはその場でたまたま手にして気に入って買うこともあるかもしれないが、その手の写真集はこの芸術のなかの写真のところにあることが多い。だけどそれでは充分ではない。洋書のところも見る。洋書は背表紙の英語を読んでもちんぷんかんぷんで何の本なのかすぐにはわからないから見定めるのに時間がかかるのである。
さらに大分類が趣味と言う棚があればその中にも写真と言う小分類が隠れていたりする。ここはカメラ雑誌やハウツー本が多いけれど中に写真集か紛れていることもある。
さらにさらにサブカルチャーのところも見て行くと写真特集の古い雑誌が見つかることもあるだろう。大型本とか豪華本とか全集などの棚も見ていくと何かあるかもしれない。写真集には新書サイズか文庫サイズのものも出ていて、そう言う本が文庫本の中にも潜んでいるかもしれない。
BOOK・OFFの面白いのはこんな風に昔からの古書店にも似たところのある混沌さ曖昧さの放置が見られるところかもしれない。店員が著者名を誤読したのか文庫コーナーの中には全く違う場所で探していた本が見つかる、と言うか「発見される」のはよくあることで、同じようにあるべき所に収まっていない迷子のような本もたくさんある。ときには正しい場所に戻してあげたくなるがそんなことはしない。
最近はBOOK・OFFの値付けも少しまともになってしまって掘り出し物が見付かる可能性は落ちたかもしれないが詳しくはわからない。以前はスマホ片手に流通価格を調べながら背取りをしている人を見掛けたが最近は少し減っているような気がする。気のせいかもしれないが。
そんなわけでBOOK・OFFをくまなく見て回るのは時間がかかる。しかもたいていはなにも見付からないのである。
本が整理されようとするのに反発しつつ曖昧さや混沌さをBOOK・OFFでさえ生んでいくところに本の魅力の一端が垣間見える、それが面白い。紙の本、頑張れ!BOOK・OFFのなかでさえこんとんと曖昧の隙間を突いて増殖するのだ!
なんてことはさておき、辻堂のBOOK・OFFで特に欲しい本は見当たらなかった。
そのあといつものように首にカメラをぶら下げて歩いていく。湘南工科大に通ずる道を、駅から海の方へ歩いていく。暖かくて、巻いていたまふらーや着ていたジャンパーを脱いで、トートバックに仕舞う。
最近、小説に熱中出来ない。夢中になれないから読了まで至らず、途中で放り投げてある小説本が何冊も溜まっている。物語にリアルを感じなかったり、もともとリアルを感じないような仕立ての小説にはその荒唐無稽さを楽しめる驚きの範囲が狭くなってしまった感覚で、簡単に言えば嘘臭さが鼻につくようで白けるのだ。読了まで行くのがノンフィクションばかりになってきている。
情けないことです。
よくわからないので直木賞受賞作家などと言う帯に書かれた肩書きを頼りに読んだことのない若手作家の本をワクワクしながら読み始めるが、結果としては全く楽しめず、進まないのである。数年前まではこんなことは少なかった。
こんな愚痴を書いたところで読んでくださっている方にはつまらないに決まってる。
でも書き続ける。もしかしたら、いろんなことに独自解釈と言うことが出来るのはその解釈が無知ゆえに明らかに間違っていても、どんなに自分勝手で共感から程遠くても、独自解釈ができると言うこと自体が大事なことなのではないか。傲慢であろうが。
それが出来ないと、背景理解や口コミ反響の状況をベースに補強したくなる、、、のかもしれない。するとそこに尺度が生まれる。
もっと勝手気ままに、言葉以前のところで、感応したい。
湘南工科大の近くにあった新しそうなカフェでコンビーフとキャベツのホットサンドを食べて、珈琲を飲んで、それからまた辻堂駅まで歩いて戻った。