今が短い


Jリーグ女子サッカーのオリンピック予選をテレビで観戦しながら、ゴールが入ると、今のゴールに至るまでの球の動きを遡ってどこから思い出せるだろうか?と考えて試みてみるがたいして遡れない。中盤からの、センターサークル付近かもっと自陣寄りから、一本の長い縦パスが出て、それが絶妙な上にフォワードのトラップや、相手のディフェンダーをかわしたり抜いたりり、ディフェンダーと入れ替わったりした上にキーパーの動きを読んでゴールの上の隅に急速に落ちる癖球のゴールが決まり、その瞬間にすげぇ!と思うけど、既にそのアシストがどこからどう来たか、誰から来たか、アシストとなるパスの前のプレーがどんな風だったのかを覚えてなくて、今ゴールを決めたあとにベンチに走っていくフォワードの選手が監督に飛び付いてから観客席に手を振り、追い付いた他の選手が後ろから何人か飛び付いて、と言った目の前の画面に映っている様子を眺めては、それが応援しているチームの得点なら嬉しいし逆なら勿論悔しいわけだが。と言うことはこのblogに何度か書いている。若い、二十代の某君に聞くと、スローインフリーキックか、相手からの球の奪取か、いずれにせよそのゴールの起点となったところからはじまりゴールまでの動きはだいたい全部覚えている、と言った。私も以前は覚えていることができていた気がするのだ。1990年代に日本がワールドカップアメリカ大会への出場権を逃したドーハでの試合も深夜にテレビで放送されるのを見ていたし、次のフランス大会の二次予選のうち、ホームの試合は通し券で見に行ったし、Jリーグベルマーレ平塚に中田や呂比須や野口や奈良橋や岩本や名塚や小島や、当時の日本代表選手が大勢いる頃、よく見に行った。あの頃は、会社の昼休みなどに会議テーブルにサッカー好きが四人五人と集まってきては、誰かが買ってきたスポーツ新聞やサッカー雑誌をめくったりしながら、終わった試合のことを「たられば」で論じたりしていた。最後の局面だけみて「キーパーが取れたんじゃないのか?」と文句を言うのはもっとも簡単でかつもっとも安易な素人の分析で、そこに至るまでの球の動きと複数の選手の連動性と、一方で一対一の球際の強さとか、ラインの上げ下げだとか、前線と最終ラインの距離とか、その他のあれこれが全て関連してゴールの確率が上がっていくようなことは、ずっと前からサッカーに詳しい仲間から教わったりもした。即ちキーパーだけが問題ではないってことを。そう言うときの会話の前提は、あるいは解説を聞く前提は、そこで話題となっていたゴールの、起点からゴールまでの球の動きを全部覚えていることがベースにあって、その上での会話だったと思うのだ。
と言うサッカーの球の動きを遡って覚えられないことは以前も書いたと思う。
「今」をどう定義するか?一瞬前でも過去で一瞬先でも未来で、今は時間の極小の点でありどこまでも小さい、なんて考えもあろうが、今の時代らしいファッションとか、今の時代の考え方とか、そう言うときの「今」のフォーカス範囲は長くて、我々は話題に関する共通認識から、いちいち確認せずとも、ここで使っている「今」がどこまでの時間軸の範囲を含めた「今」なのかを使い分けている。音楽の楽曲はここに至る過去となってしまった音の連なりをもって初めてメロディーをはじめとする諸要素が成り立つ。これを音楽だけでなく広げて考えると、注目している対象を五感が感じ続けている文節のような区切りから区切りまでのうちの、最新か最新に近いものが「今」に属する、、、とか?
サッカー観戦の例ならばボールの動きを覚えられない私の「今」は、今となってはもう随分と短くなってしまう。すぐに過去になってしまう。これに比べて若い人の「今」は、サッカーの球の動きの例のように、そこから考えると多分他の場合でも総じて長い。「今」が長ければ「今」に属することが多くなる。そう言う状態が「若さ」なのか。そもそも若いのだから過去が少ない、過去が少ない上に「今」が長い。
脱線。今はもう、昼休みに仲間が集まってスポーツ新聞を見ながら勝手気ままにスポーツのことを話すことなどないなぁ。みんな自席で、パソコンやスマホをいじるか、あるいは寝ている。会社の「仲間」って感じも薄れてみな孤立していないのかな?
話は戻って。先日、写真を趣味としている若いH君が流行りのネット上でフォトブックを作成注文するページを使って編集途中の作品案のレイアウトを写真と一緒に見せてくれた。そこには私以外にも、同じく写真趣味の他の若いメンバーが何人かいた。H君の写真は休日に青い空や海の下、満天の星の下、アウトドアで遊ぶような休日の開放感に溢れた明るく爽やかな写真が多いけれど、中に室内の棚の上に置かれた木工細工の可愛らしいウサギのおもちゃを撮ったものや、どこかの公園の(高崎山?)日本猿の小猿を胸に抱いた母猿の写真なども混じっていて、その視点の広がりがフォトブックに程よいリズム感を与えている。なので彼がスライドショー的にモニター画面上で捲っていったフォトブックのレイアウト案を見ていた私は具体的にあそこをこうしたほうが良いなんて指摘はあまりなくて、へぇいいじゃん、とだけ思った。ところが私と一緒に見ていたU君は、なぜウサギのおもちゃはちゃんと立ってなくて転がって置かれていたのか、とか、小猿を抱いた母猿は良い場面だろうがその右後ろにだらしなく寝転がってボケて写っている別の猿が興醒めだなどと指摘した。まるでサッカーの球の動きを覚えられないのと同じで、私にはH君が捲ったスライドショーのスピードでは主被写体と写真の全体の雰囲気が見えただけでU君の指摘したような細部はその短いスライドショーの中ではまったく見えていなかったのだ。
このこととサッカーの球の動きが覚えられないことと何か関連が有るのかどうかはわからない。
余計なことを見たり気にしたりしなくてもいいので本質が見えている、なんてのは都合の良い解釈に過ぎないが、まぁこれはこれでいいんじゃないか?気にしない気にしない!