ファミレス

カメラをぶら下げて街をふらふらと歩いていて、たいした具体的で論理だった思考など経ずに、写真を撮る。それでもそこを撮るのだから自分のなかで何らかの「撮る動機」があったってことだ。それは自分から見たら外側、被写体側の条件が仮に全く変わらなくても(実際にはそんなことはあり得なくて、被写体や被写体を取り巻く回りの状況も時々刻々に変化はしている)、撮影する私の中身の様々なことがまさに時々刻々変わるのだから、簡単に言えば気分が変わり続けるのだから、ある日にそこを撮っても、別のある日にはそこを撮らないかもしれない。前に撮ったからもういいや、って言う気持ちもあるだろうし、ここ好きなんだよねぇ!と自覚してオートマチックに同じ場所を撮ることもある。
先日、飯沢耕太郎さんが写真集について講演したのを聴いた。何冊かの写真集(紹介された中には「初夏神経」と言うのがあり、これについては今まで全く知らなかったし、他の写真集についても改めて解説を聴くと面白かった)を紹介する内容で取り上げられた中には荒木さんの「センチメンタルな旅、冬の旅」もあった。この写真集には最早有名になっている猫を抱いた少女の絵の看板、レストラン?花屋?(こんなのは調べるとすぐにわかるのだろうが、調べてないので不明)の写真が四回だったか使われている。同じ写真ではなくて荒木さんがそこを通る度に撮っていた沢山あるだろう看板の写真から四枚が写真集に使われたってことだ。写真集は奥さんの陽子さんが亡くなるまでのことがストーリー型に展開する。各写真に短い文章が添えられている。その流れの中に四回、看板に描かれた猫と少女が出てくる。飯沢耕太郎さんは最初は可愛らしく見える少女の絵が、段々と、何か不幸を連れてくる象徴として怖さをもって見えてくる、みたいな趣旨のことを言っていた。荒木さんが写真集を編むときにはそう言う風な意図を、即ち仕掛けを明瞭に意識していたかもしれない。しかし毎日、地下鉄の駅から奥様が入院している病院に通う道すがら、なぜかいつもこの看板を撮ってしまう、と言うときにはそんな戦略はなかったに違いない。ただ「何故だかわからないんだけどさぁ、撮っちゃうんだよね」ってことだったのだろう。ご自身がそんなことをどこかに書いていたか話していたかしていたような気もする。
荒木さんの、この看板に描かれた少女の写真が例として正しいかどうかはわからないが、街歩きスナップをしているとそこを通るときには必ずそれを撮ってしまう「定番被写体」が生まれるものだ。多分、街歩きスナップを趣味としている人は誰でも同意してくれると思う。私も、茅ヶ崎駅から家までの間にあるとあるアパートの前にいつも止まっているカバーのかかった車やらなんやら、そう言う定番被写体を持っている。そう「持っている」って感じなのだ。そして、その被写体はある日、ふと気付くとなくなっている。上記のカバーのかかった車はまだあるが(持ち主が車を買い替えたらしく以前の背の低いセダンから変わり、今はもうちょっと背の高いセダンとワゴンの真ん中な感じの車に変わったが)、家から茅ヶ崎海岸に向かう一番近い一本道の、踏み切りを越えたところにあった、色ガラス(紫だったかな)に白い文字で××美容室と書かれたドアがあってその横に鑑賞用の?笹が植えられていて、はっきりは覚えてないが、窓の外にアールヌーボー風の形をした金属製で白く塗られた飾り桟があり、窓ガラスには何かの模様がレリーフの様に浮き出ている、そんな感じの古い美容室があり、その美容室とすぐとなりの鶯色に塗られた木造二階建てのアパート、さらにその先の蔦が絡まった崩れ落ちそうな車庫(この車庫にはどういう由来なのか「トーマス車庫」と書かれていてそれを読むたびに私は中に自動車ではなく機関車が仕舞われているように錯覚したものだ)があり、そこで私は自転車を停めて、でも降りずにまたがったまま、いや、ときにはちゃんと自転車を停めて降りて、写真を撮ったものだ。しかしこの定番被写体はもう全て、一斉に取り壊され整地され、そのあとに戸建て住宅が何軒か建った。
茅ヶ崎に引っ越してきた1989年末には定番被写体はゼロだったわけだが、その後に増えていき、それからまたこんな風に減ってきた。ゼロから増えたように、一方では減ったとしても、また見付けて増やせば総計は変わらないのだから、常に定番被写体を増やせば良いのだが、定番被写体は日常使う経路や、そこから逸脱するにせよ、せめて月に一度か二度は通過する道筋にあるべきで、その経路や道筋が変わらないのに一つ減ったから一つ増やそう、とはなかなか行かない。定番被写体となるには自分でも条件がはっきりはわからないが、多分「なつかしさ」にかかわることで撮ろうと言う気持ちを起こさせるのだろう。だから、定番被写体だった古い美容室と古いアパートと古い車庫、それらのあとに出来た、新しい住宅は、私の新しい定番被写体にならない。でも他の場所では新しい住宅もよく撮る場所があるから、新しいので即ダメって訳でもないようだ。
だけれどもたまに、以前は定番被写体にならずその前を頻繁に通っていても撮ろうとは思わなかった場所や建物や風景が、何かの拍子に見る視点が変化するってことなのか、定番被写体へと「昇格」することがある。稀だけど。
もしかしたら私にとっての定番被写体になるための一番強い理由は「古くなって、それと同様のものが少なくなってもうじき無くなりそう」×「なつかしさが生まれる」と言うことで、ある日にそうではなかったものが世の中の様々な変化のなかでいつのまにかこの条件に当てはまってくるのかもしれない。上記の新しい住宅の場合は、少くとも「古くなって」には当てはまらないのだが。だからこの理由も万能ではない。
それでもこの条件式が高い確率で当たるとすると、定番被写体はやはり高い確率で壊されて消えていく。なにしろ、古くてなくなりつつあるものなのだから。
こんなファミリーレストランの建物なんか、以前には目も向けなかった。それなのに土曜日の午前、朝の散歩で茅ヶ崎海岸まで行ったときに、ふと気になってしまった。ステーキガストだからそんな昔にはなかった店だが建物は店の名を変えながらずっと使われているのかもしれない。もしかしたら建物と言うよりチープな星のマークや(60年代みたい)、コカ・コーラのトラックが作る風景?光景?の全体が懐かしくて撮っただけで、ファミリーレストランがこの時をもって定番被写体へと昇格したのではないのかもしれないが。でも今後、この場所や他の場所でファミリーレストランを見ると撮る確率が上がりそうだ。
1978年、大学四年のときに所属していた研究室は四年が七人、院生が四人、助手二人、講師一人、助教授一人、教授一人、の構成だった。四年生と院生のうち、自家用車を持っていたのは四年に三人院生に一人だったかな。A君のカリーナと、B君のアコードは新車だったが、C君のファミリアは中古車で変な色に塗装されていたし、D先輩の青いサニーは左後ろのドアを開けるとドアが外れて落ちるうえ、坂道の上からニュートラルで下った勢いでいわゆる押しがけでエンジンを始動させるのが必須だった。そのD先輩は高校三年のときにアメリカに留学の経験があった。ある日、アメリカにあるデニーズと言う店がとうとう近くに出来たのでいってみようと言うことになり青いサニーに定員オーバーで乗り込んで四人か五人で出掛けた。D先輩がアメリカではこのデニーズと言う店があちこちにあって、よく行ったなんて話をし、目玉焼きのことをサニーサイドアップということなどを教えてくれた。トーストのモーニングのようなものを食べたのか、ハンバーガーだったかな。コーヒーを飲んだだろうか?よくは覚えていない。
調べてみるとデニーズの日本での最初の出店は1974年。私がこのようにして青いサニーに乗り込んで先輩に初めてファミリーレストランなるものに連れていってもらったのが名古屋市のことで1978年。まぁ矛盾はないようで記憶は正しそうだ。
当時はファミリーレストランとは言っていなかったか。ではなんと言っていたのか?
ファミリーレストランの建物になつかしさを感じるのはこんなささやかな思い出がくっついているからかもしれないな。デニーズのことを書いたけど、写真はステーキガストでした。ま、いいか。