箱根湯本あたりを


 箱根湯本を歩いていたら「さくらぎ薬局」という薬局の店先で古い絵葉書を展示していると言う案内を見つけたので見学無料の文字にもひかれて入ってみた。一階で記帳をしてからレジ奥のカウンターから三階、四階と階段を上がっていくと、階段の両側に箱根や小田原や熱海の、大正時代などが中心なのだろうか、古い絵葉書をコピー拡大したプリントが所せましと飾られていて、四階だったか三階だったかの展示室には絵葉書そのもののファイルが何冊にもわたり置かれていて自由に閲覧できるのだった。先々代から先代が引き継ぎ、今の店主まで大事にされてきた貴重なものだ。
 ちょうどこの3月末から4月にかけて、このコレクションを使った都内のJCIIフォトサロンで「大正の写真師が見た小田原・箱根〜昨日の道、去年の坂」という写真展が開催されるらしくそのDMもいただいた。
 上の写真は階段の踊り場に展示されていた写真を絞りを開けてナナメから撮ってみた。こういう場所に来て真正面から複写するように展示物を撮るのはどうしたものか、と躊躇が起きる。そこでこうして階段の壁の(?)オレンジ色とか、写真のマットとか隣の写真とかまで入れて、深度を浅くして撮ったりする。そういう方法で撮ると言う前提のもと、そう撮ったときに面白くなるような被写体を展示物の中に探しているのだった。だけどそれであってもやっぱりこの写真に「良さ」があるとしたら、大正の写真師が撮った富士山とそれを背景にして立つ男性があることだろう。そう考えるとやはりこの写真は私の写真とは言えないのかもしれない。だけど自分の目の前に現れるすべての「見たもの」の中で自分が写真を撮りたいと思ったところを記録していくことが写真の本質であるとしたらそれが誰かが撮った写真であっても目の前に現れた「見たもの」に含まれている以上、撮るのは自由であって、これは私の写真であると胸をはっても良いと言う考え方もあるわけだ。たとえば鉄道や建築物や素敵なモデルを撮るときに、それはすべて被写体と撮影者の写真に撮りたいと言う価値観との「物々交換」が成立したような感じでそこを撮るわけだが、その価値観と交換したくなる被写体の魅力というのか「在り様の写真性」のようなことは被写体側にあることなのだから、大正の写真師どころか鉄道の被写体(たとえば電車)を設計した技師やデザイナー、建築家、モデル本人の魅力を借りている写真家とは何なのか?ただの盗っ人なのか?という疑問に行き着いてしまう。さらに被写体を鉄道や建物やモデルでなく自然や街に拡大しても、自然や街の魅力を作りだしたすべての「関係者」(それは人だけではなくなってくるかもしれない)にコバンザメのようにくっ付いて、上り(あがり)というか表層を頂戴しているだけ、というのは写真を撮ると言う行為なのかもしれない。
 なんだ、これって結局は写真の記録性のことを言っているだけだな。多くの写真家が写真とは現実の記録である、と言うのはこういうことかもしれない。ただ、写真家を取り巻くすべての世界からどこをどう記録したかの集積だけが表現にたどり着く道筋なのだろう。
 すると絞を開けて深度を狭くしてナナメから撮ると言うのはちゃんちゃらおかしい「逃げ口上」だろうか。

 小田原から箱根湯本に行く途中、小田急線には三つの小さな駅がある。箱根板橋と風祭と入生田。順番があってるかどうか自信はない。その入生田(いりゅうだ)駅近くに生命の星地球博物館があって、私の子供たちが幼稚園児や小学生だったころには何回か来たことがあったが、最後に来てから十五年以上は経ってしまった。そんなに経っているとは信じられない感じがする。展示内容もあまり変わっていないようだった。
 展示コーナーのなかに神奈川県の植物を紹介している地味なところがあり、いがが半分開いて中に栗の実が見える「栗の実」が置かれていた。それを見ていたら、最近見た夢の中で自分が長靴を履いて一生懸命イガを踏んで、中から栗の実を取り出している場面があったことを不意に思い出したりした。
 博物館の展示物を撮るときも同様に絞りを開放にしてナナメから撮っているのだった。