牛島の藤 天然記念物だそうです


 藤の花を見た後に、北浦和の埼玉県立美術館でジャック・アンリ・ラルティーグ「幸せの瞬間をつかまえて」展を見てきました。

 同じ写真という言葉に属しているのは、道具や技術からの括り方で、すなわち「カメラとレンズを用いてフイルムもしくはイメージセンサーに結像された像情報を記録し、その記録されたデータ(現像済フイルムや画像ファイル)を用いて複製や再生が可能であること」であり、その写真をなにの目的で、あるいはどういう目論見を持って使うかは、千差万別。その千差万別を分類するときにも被写体の種類で括るやり方が一般的ではあるが、写真家の「写真とはなにか」の考え方に応じている場合もある。そして、そういう分類というのは明確に分けられるわけでなく、写真家自身がいちいちの被写体と結ぶ関係も変化するわけで、結局は一人の写真の混沌が、写真を撮る人分、右往左往している。
 しかし、そんな中で写真の基本機能のようなことを「代表例」で取り出すことは不可能ではなくて、技術的なところを拠り所とする基本機能のひとつには「激しく変化していて肉眼では見極められない瞬間を切り取る」ということもあるのだろう。ジャック・アンリ・ラルティーグが若い頃にその魅力に夢中になっていて、飛び上がっている瞬間の人や猫やを撮った作品を見ると、これに限らず写真の基本機能の「ほとんどすべて」がカメラが普及した早々に発見されていて、その基本機能を「初めて」楽しめた人々は楽しかったのだろうなぁと、まさに「幸せの瞬間」だと思った。すなわち写っている被写体の方が「ハレの日」で「幸せの瞬間」にいると同時に、撮っている写真家も「幸せの瞬間」なのだとわかった。
 だけどフイルム時代からデジタル化されたときに、この「初めて」の機会が、大抵は同じ写真を撮るための技術的ハードルが下がったことの効能であらたに発生したとも考えられて、だからいまこそ二度目の「幸せの瞬間をつかまえる」ことが出来る時代なのかも、あるいは、時代だったのかも、しれない。
 数年前、街のいろんなところで飛んでいる自分の自写像を撮って人気を博していた女性カメラマンがいたが、ラルティーグの写真を見ていたら、それもまたラルティーグの系譜に属したフォロワーなんだなあと思った。

 ところでこの藤、特別天然記念物だそうです。