南風吹いたら


銀塩換算焦点距離600mmの超望遠で湘南平(神奈川県平塚市と大磯町のあいだの丘陵のてっぺんにある公園の展望台)から強い南風で高い波が立つ相模湾を撮影。

風が強い日が多い。全国的に荒天で大雨の予報が出ている地方もあるようだが、強風であってもこうして快晴で気温も高い初夏のような日には、木々が揺れて葉擦れの音がしたり、細く開けた窓にすきま風が鳴いたり、そう言う風が立てる音がするのが好きだ。少しの不安とたくさんの期待をはらんでいるようで、懐かしい。まるで若かった頃のように。
湘南平には相模湾を見渡せる展望台が二ヶ所ある。テレビ塔の途中まで上がる展望台は東と南が見渡せる。食堂のある建物の屋外の展望台は南と西が見渡せる。後者に上ってみたら風向きのせいか、前者よりも遥かに強く、吹き上げてくる風に煽られた。吹き荒ぶ風で足元がおぼつかない。手すりを抱えるようにして膝をついて座り込んで、写真を撮る。海原には三角波がたくさん立っている。
上の写真には大磯町か二宮町の海の近くの住宅街が写っている。この辺りを歩いたことがあるだろうか?以前歩いたことのあるあの町がこの写真の町ならば、なんて思うところがなくはない。あの町がこの町なら、住宅と言っても、週末には都内のナンバーの車が停まっていることが多い辺りだ。まだ西湘の町には別荘のような使われ方をする住宅が多いのかもしれないな、と思って歩いたことがあったのがここの辺りかもしれない。
日本の古い町らしい黒い屋根瓦が見えない。それでもこの新しい色とりどりの三角屋根が作る風景は悪くないなと思う。同時代の風景で、かつ、綺麗じゃないか!
新しい風景が嫌いだったのが、ある日を境に馴染んだり好きになったりすることが有るのではないか。例えばデジカメが大普及拡大していた数年前に観光地や祭に行ったときに、自分が撮りたいスナップ写真の画面構成のなかに写真を撮る人が入ってくるのが嫌だった。ましてやスマホで写真を撮る人も、私にとっては「被写体ではない」人たちだった。それが今では必死に写真を撮る人もスナップの被写体で観光地や祭や都会の休日の町や、なんやらかやらで写真を撮るときに邪魔に思わない。むしろ積極的に入れている。
話し方の流行もそんな風だ。十年かもっと前に、誰かに言い訳をしつつ同意を求めるようでいて、実は同意を強制する力がもう少し強いような、それなのにその強制力をオブラートでくるむようにしたいときに「××じゃないですか」と言う日本語の言い回しが、それまでももちろんあったから新規発生ではなくて、その使い方の一般化が進む、そんなことを感じた。名前のベストテンが変化するように言い回しのベストテンがあるとすればかなり激しく変わっている。たしか東海林さだおがこの「なになにじゃないですか」の言い回しを嫌悪したエッセイを書いていた、気がする。じゃないですか、の使用頻度がぐぐっと高まったときに、私は東海林さだおと同様に嫌悪感があったので、その事を友人に話してみたが、友人は首を傾げるばかりでその違和感を感じてなかった。
まぁ、じゃないですか、は文法的な間違いはないらしいのでよしとして、はじめて、たしかうどん屋で、代金を払おうとしたとき「千円でよろしかったでしょうか?」を言われたときには訳が解らないほど動揺した。こっちは文法的にもおかしいのではないかい?
最近は、よろしかったでしょうか、も流行遅れになったか遭遇頻度が少し落ちた気もするが。
でも言語はあとからできた決まりを整理した文法を厳守する縛りが必須ではなく、むしろ大衆の使用のなかで変遷していくものだから、よろしかったでしょうか、も、誰も違和感を感じなくなったらそれでまた新たに認められるべきなのだ。いま、我々が使っていて違和感のない日本語だって、過去のある時代に話したら、その時代の文法に照らして間違いだらけなのではないか。
と言うようなこととして、最近、「××だと思うので、○○ しましょう」と言うときの「思うので」のイントネーションの「で」の強い押し出しが耳につく。私だけだろうか?最初に気になったのは、なでしこジャパンのオリンピック予選が不調に終わったときの解説の澤さんが「最後は気持ちが強い方が勝つと思うので、そこは負けないようにしてほしいと思います」と言ったような言い回しを何回も使っていてふと気になりだしたときからだった。一度気になると耳につく。しかも、気が付くと私もよくそう言う言い回しをそう言うイントネーションで使っているのだった。気が付くと自分としてはその言い回しを封印したいがぺらぺらしゃべっているとき、なかなかそうはいかない。
ほかにも「逆に」とか「要は」とかも以前より使用頻度が上がっている気がする。「個人的には」も。あとから言い訳可能とするための枕詞のように使われる。
言葉の流行のような話になってしまったが、言葉も風景も、あるときそれが受け入れられる。この三角屋根の日本瓦の見当たらない住宅風景もそう言う風に、私のなかで受け入れ可能な変化を経た、自分にとっては「新しい」好きな風景に当たるのかもしれないな。