上野から有楽町まで歩いた日


 無謀にも?「生誕300周年記念 若冲展」を上野の東京都美術館に見に行った。2時間待ち。展示室もすごい人ごみでなかなか作品に近づけない。しかしそういうストレスを全部払拭して、素晴らしい展示だった。

休日にはカメラを持って歩いていることが多いのだが、颯爽と早足で、と言うわけにはいかなくなっている、、、のかな?と、最近思う。それどころか、フラフラと歩いているようだ。ブラブラならまだしも。自分が歩いているところを電信柱に括り付けられた監視カメラからの視点になって見るとどう見えるのか?多分、いや確実に、思っている以上にヨボヨボとフラフラと、背中も丸まって、情けなくなっているに違いないぞ。若い・・・三十代や四十代の今よりも若い頃って意味だが、その頃には会社最寄り駅から会社や、自宅最寄り駅から自宅、前者が600m後者が1.2kmくらいだろうか、を同じ方向に向かって歩いていく歩行者に抜かれることはほぼなかった、気がする。抜くことは多々あったが。
もっと前、二十代の頃に東急田園都市線と言う都内は渋谷から、西へ伸びた路線の、渋谷から三十分くらいだったかな、藤ヶ丘ってところに五年ほど住んでいた。同じ駅を利用して駅から五分くらいは同じ道を使っていた会社の先輩のTさん、私より十二才くらい年上の方だが、当時は四十才くらいでいらっしゃった。四十才か!
そうか、こう言うことを考える、と言うか、思い出すときって、大抵、その人(この場合はTさん)がそんなに若くて、もっと言えば、今の自分よりずっと若かったと言う、当たり前の事実にちょっとびっくりする。自分が二十代だったことは前提なのに、そこから算出した相手の年の「若さ」に驚く。これはどういうこと?先輩は先輩であるから、過去に遡って思い出していることとは関係なく、過去においても現在の私より常に年上であるかのような錯覚めいた認識があるのだろうか。
その頃、たまにTさんと一緒に帰ると、Tさんの歩く速度は凄まじく速くて驚いたものだが、そこは「合わせる」ことは無理なく出来た。たしかTさんは「ゆっくり歩いても意味がない、速く歩くことが大事なのだ」と言ってた。なんのためには、速く歩くことが大事なのだ、とおっしゃっていたのか?健康かな。
最近はよく抜かれる。抜かれると、ときには、なにくそっ!と思いその早足の人の背中をターゲットにして、即ちこう言うときはなにか銃の照準を合わせるような気分になるものだ、離されないよう追い付くよう、あわよくば追い抜くよう、速度を上げる
こともある。だがやはり自分の無理なく歩ける速度の上限には限りがあり、そこが落ちているから、すぐに持続が難しくなる。そこで、気分としては「やむなくターゲットをリリースします」って感じで追うのを諦めるのだった。
そんな風にだんだん歩く速さが落ちている上に、判断力の低下が加わる。どこまでどう歩くか?この交差点はどっちに曲がってみるか、昼食はあっちの蕎麦屋にするかこっちのカレー屋にするか、あの先の青信号で渡ってしまうために走るか諦めるか、等々、いちいちの散歩における選択の決断が遅かったり、投げやりだったりしている。そしてその選択にしたがって道を選ばなければならない交差点に着いてから、右往左往。回れ右やら引き返すやら、飲んでもないのに千鳥足。
街角スナップはそんな風でも、むしろそんな風のときこそ、目に留まる被写体が増えている、かもしれないから、まぁいいか。
若冲展のあと上野から有楽町までそんな風に歩きました。快晴の気持ちのよい5月。
秋葉原のあたりはちょっと変わった人が多くいたな。