駐車場を見下ろす


昨日、予定通り某有名喫茶店でタマゴサンドを食べた。
二十代後半から数年前まで、私は玉子を食べなかった。アレルギーってわけではないのだろうが総じてお腹を下してしまう確率が高いので避けていた。乳製品はみんなそんな感じで、中でも玉子には敏感だった。それが歳を取るにつれて反応が鈍くなり、それと共に玉子を食べることも復活した。カツ丼も親子丼も、玉子焼きも目玉焼きも、卵とじうどんも、20年くらい避けていたのですよ!それが大丈夫に戻った。喫茶店のモーニングセットに茹で玉子か炒り玉子が付いてれば、今はもう平気で食べてしまう。よかったよかった。
とは言え、そこはやはり程度があって、いっぺんに玉子を三個か四個か使っているものを食べるのはちょっと厳しかった。あるいはほかにも複合型原因があったかもしれない。暑くて冷たいものを飲みすぎたとか。
とにかく腹を下してしまった。痛くはない。ゴロゴロして、トイレに座り激しく下す。脱水しないように水を飲む、それがまた刺激になるのかゴロゴロする。ポカリの方がいいのかな、と思い、ミネラルウォーターほペットボトルからポカリに変えた。
暑い屋外を大汗をかきながら歩くのは体力消耗が心配だしトイレを探して回ることになりそう。と言うことでお腹が安定するまで、慌てて買った止瀉薬の効果に期待しながら涼しい建物の中にいようではないか、と決めて、京都駅の辺りにずっといた。
えき美術館では安西水丸展をやっていた。水丸氏のイラストと言えば、村上春樹の本の装丁が目に浮かぶ。ほかにもいろいろなところで、言い方が悪いかもしれないが「しょっちゅう」目にしている。フォロワーも多いのだろうか、本当は水丸氏の作品ではないものも含めて「こんな感じのイラスト」と言う分野のようなものすら生まれていたのではないか。そういう具合に日々の暮らしの中で、本の表紙や駅貼り公告や、雑誌の広告ページや、そう言う「通り過ぎる」光景の中にチラチラと見えていたときにはわからなかったことが、まとめて展示を見ると見えてくる。それは水丸さんの思いや嗜好のような生々しいことのようで、そんなことは作家としては私小説ではあるまいし、あまり明かしたくはないことなのかな。でも回顧展が作家の履歴や、ときどきの発言や、どこで誰と何をしてたかなんてことも「参考程度」(実は参考とか言いながら特に素人にとっては展示を見る唯一の道標かもしれない)に示されるのは、常套手段と言うか、まぁやっぱり必要なことだから、結果としてはそんなことが見えてしまう。すごくポップな感じがする、何て言う素人はそれ以上は、例えばイラストの手法や歴史からしてそれがどんな理由で感じられるのかはわからない感想に、少しだけ個の持つ人生の背景のようなことが教えられると歴史や手法ではなく世代の共感の様なところから理由の一端が垣間見える(気がする)。それは大抵、その人を知ることによって、それが水丸さんのように亡くなった人でも、人と言うのは多分原理的に知ることで親しみを感じるように出来ているから、回顧展を見て「良かった」「楽しかった」となれるのだろう。なんて書くと、回顧展の戦略を暴いているだけみたいだが、そうではなくて水丸さんのイラストはとても素敵でした。描かれている物や街や風景も素敵だがなにより女性たちが。
以前は鎌倉駅のホームから見える道沿いに、今は由比ヶ浜商店街にあるcoffee&Whiskyの某は水丸さんのよく行く店だったのかな。テレビか雑誌記事でそんなことを読んだ気がする。多分二十年くらい前に。その店の看板に描かれたウディ・アレンの前を通る度に入ってみようかなと思いながら、まだ一度も行ってない。
京都タワーにも上ってみた。上の写真は京都タワーからヨドバシカメラなのかな屋上駐車場を撮ったものです。