蒸し暑い日々


この写真は7月9日に撮った。撮った写真をパソコンに取り込むときに、一コマあたり1秒もかけずに、ささっと見る。気になった写真をこのブログに使って、あとはもう一度も見返さないことすらあるだろう。この写真はたまたま14日に9日の写真を見直した。見直すと、9日に見直したときには気にならなかった駒が気になりだす。そういう一枚だった。14日にブログに挙げたあと、記事を書かないままになった。とくに書くことが思いつかなかった。今度は記事を書かないまま、挙げた写真を見ることになった。すると、今度は、だんだんと、見るたびに、なんでこの写真がいいと思ったのかが不明になってきた。写真を「いい」とか「気になる」とかいう尺度でこうして文章を書いているが「いい」「気になる」の詳細をさらに分析すると、その正体はなになのか?いや「気になる」は「気になる」だけで、その理由までさかのぼらなくても、感覚的なことを定義しているからそれで構わない。問題は「いい写真」というときの「いい」とは何か?「いい」と評価するには万人か、少なくとも複数の人に共感として「いい」と感じる定義があってしかるべきなのだろう。定義があるってことは発展の余地がない、もしくは少ないって感じもする。すなわち「いい写真」という言い方はそれ自体嘘くさい。使ってはいけない言葉なのかもしれない。