茅ヶ崎花火大会


茅ヶ崎海岸まで花火大会を見に行く。毎年必ずって訳ではない。予定があって行けない年もある。予定が無くても、行こうと思わない年もある。それでもここ十年くらいのあいだには、五回くらいは行っている、そんな気がする。四回かもしれないが。
なに、実は自宅のマンションからも見えるのだ。ベランダに出て、住宅の三角屋根のシルエットや、もう少し向こうの茅ヶ崎駅辺りの、五階か六階建てのビルが作るでこぼこした四角のシルエットの、そのちょっと上に花火が開く。ベランダで見た回数も入れると、十年で八回にもなるだろう。
すぐ近くで大きな破裂音とともに空気が揺れるのがわかる距離で、大きく開いた花火を、たくさんの見物客とともに歓声をあげて見るのもよいのだろうが、そんな見方は、いつだったろう、三十年くらいまえに会社の仲間と、多摩川の花火大会に行ったのが最後かもしれない。以降は遠巻きなのだ。茅ヶ崎の花火も会場の漁港や海水浴場から、少しだけ離れた西側の砂浜、その辺りには三々五々って感じで家族連れやカップルがレジャーシートや近所のかたは家から持ち出してきたキャンプ用の折り畳みチェアを広げている、そこで見ることにしていた。スペースはいくらでもある。花火が始まってからやって来ても広い砂浜の好きな場所に座って花火を眺めればいい。
数か月前に、川内倫子のデビューの頃の写真集「花火」を見返していて、やっぱ凄いわ、と思った。花火大会と言うイベントに集まる、人と言うより「みんな」の気分のようなことが、写っている。老若男女のそれぞれが、それぞれの年代に相応しい夏のなかにあって、その「それぞれ」を包含していた。包含した不変の夏も写っていれば、二十代の誰かが見れば二十代の夏が、五十代の誰かが見れば五十代の夏が、写っていた。写真家は受身で、私を封じ込めて、ただ撮った。それが新しい唯一無二になった。
なんて今更ながらの「花火」なのだか、早速、あの写真集が頭をかすめる。今年はもう三脚は持っていかず、いつもの西側の砂浜にこだわらず、F1.8の28mm単焦点で、ぶれたって構わないから歩いて移動しながら撮ってみよう。
と言う経緯で、それでも混雑しているメイン会場には行かなかった(混みすぎで、行けなかった?)が、いつもよりはうろうろとしてみた。
それでこんな写真を撮ったのだが、結局、同じような構図ばかりになってしまった。思ったほど歩かず、結局ずっと、花火を眺めてしまった。
さて、花火は打ち上げが始まって最初の頃はそこに開いたその花火を見て喜ぶ、あるいは、楽しむ。感心する。写真のミラーorウインドウでたとえれば私の目はウインドウでいま見たこの花火が全てだった。
しかし、そのうちに物思いに耽っている。
と、ここまで書いて、物思いに耽る、を調べてみたら、思うことは「悩みごと」や「不安」に限定されている?そう言うWeb辞書もあるから、そう言う方向なのだな。
じゃあ必ずしも物思いに耽るでなくてもいいです。ただ、いま考えていることは、過去か未来のことで、懐かしんだり後悔したり、計画したり妄想したり期待したり、そう言うことが花火により促進されるのではないか。写真で言うと、ウインドウからミラー状態に変わってく、心のなかが。
いま目の前に有る状況を受け止めたり理解して、身体の反応とすれば瞬間瞬間に続く五感のインプット情報を複雑なアルゴルにかけずに生に近いところから理解解釈をしたり、多分に生存本能のようなことに基づいて反応する。と言う状態を、写真の単語を拝借してウインドウ状態と称して、心の状態軸の一方の端に置き、もう一方に、これらのインプット情報に、記憶された様々な情報も含めて(ときには瞬間のインプット情報の占める割合は極端に小さくすらなる)複雑な処理をしている、これが物思いに耽るとか、思索する、であって写真の単語を拝借してミラー状態と呼ぶとすると、心はこの軸の上を右に左に(軸は横軸として、ですね)行ったり来たりしている。花火大会を仮にこんなことが分析可能な装置があったとして、そこに来ている人の心の一般的な傾向を調べると、開始時にはウインドウ状態寄りにあった平均値がだんだんミラー側へ移行する。あるいは、軸上の行きつ戻りつの変化を周波数分析すると常よりも高周波側にぶれている。そんなことではないかな、花火大会は。もちろん個人の状況、恋人と来ているか、仲間と来ているか、家族と来ているか、や、どこで見ているか、や、年齢や当面抱えている問題が何かとかとか、一人一人の軸上の動きは千差万別なのだが。
縦軸はそれらの心の状態の活発さを示したらどうだろうか?などと続けて考える。祭は縦軸が高い環境とかね。
川内倫子の「花火」は花火大会の観客の心の状態の、そう言うことを撮っている。風景写真の典型の花火写真は全く目的が違って、花火大会の見物客のミラー状態の心の代弁者もしくは記録者と言う役目を果たしている。
ミラーorウインドウとか言うけれど、人の心がこうして右往左往していることを知って、その右往左往を冷徹にウインドウから記録する、と言うことが写真なのではないか。
ミラー状態とウインドウ状態を両端に置いた横軸を右往左往し(徐々にウインドウ状態からミラー状態に重心が移り)、高揚し、そう言うカオスとなった観客の心の状態の総論を写真集として、それを構成する瞬間瞬間を一枚一枚の写真として見せている。写真家は自らは記録者に徹して、始めてミラーと言われる写真も撮れるのではないか。私のように花火大会に取り込まれて物思いに耽ってしまったら、たいしたものは撮れないな。
あれー、こんな川内倫子讃を書くつもりはなかったんだけどそっちに転んでしまいました。
物思いに耽る、の具体的な例として、好きな人が出来てついついその人のことばかり考える、と説明されてることが多そうだ。ネット検索すると。好きな人が隣にいるより、今はいなかったり、まだ片想いであったり、叶わぬ恋だから心に秘めているだけだったり、そう言う方が物思いに耽るだろうから、物思いに耽ることが、言い換えると思索することが哲学者の所以ならば、恋は人を哲学者にする、ってことか。
さて、いまの高速化を強いられたネット社会には、心がミラー状態になってる時間割合が、ウインドウ状態になっている割合より、時代とともにぐぐっと減ってしまってないかしら。それは唯一考える動物としての人間にとっての有る面の退化なんじゃないか。ま、きっと一例として江戸時代の方々からすれば、現代人の心は退化した(機微がない、心情がない、複雑なものの成り立ちを理解できない)と思うんだろうな。
産業革命は精神後退を産んでないかい?
ほほ、また随分と厭世的なこと。