散歩と読書の日曜日


午後から、カメラをぶら下げて茅ヶ崎駅の南口から住宅街の路地を気の向くままに曲がりながら歩き「鉄砲道」と呼ばれる海岸線と平行に、海沿いの国道134よりは北側(住宅地のまん中)を東西に伸びるバス通に行き当たり、近くのバス停で時刻表を見ると、数分後に茅ヶ崎駅南口発辻堂駅行きのバスが来ることがわかった。辻堂駅は、JR東海道本線茅ヶ崎よりひとつだけ東京よりの駅で、その間はどれくらいかな、調べればすぐわかるんだけどめんどくさい、五キロくらいかな。でもいま調べたら3.8キロだった。
始発の茅ヶ崎駅南口から二つ目か三つ目か、すぐのバス停なので、バスは時刻通りにやって来る。曇天。窓から眺めていると夾竹桃百日紅の花か誰かの家の庭や、歩道に見える。バス停の横にはおしろいばなが植えられているところもある。途中、私立の高校に近いバス停から、大きなバッグ、体育系のスポーツの道具が入ってるバッグを担いだ、日に焼け男子学生、五六人が乗ってくる。みなデカイ。なんかこうエネルギーが暴発しそうで、そうならないように故意に緩慢に動いている感じ。自分が高校生の頃は、当然、ひ弱な文化系の身も心も小型種だったので、体育会系の大型種の連中とは関連を持つことはあんまりなかったな。大きい友人も文化系で、つつくとエネルギーが駄々漏れしそうな奴等じゃなかったし。なんとなく危ないものには近づかないようにしようと言う、備えあれば憂いなしと言う感じで、避けていたのかな。そんな対応が懐かしい、ではなくて、今も発動されるのか、げっやだな、じっとしてないとオヤジガリに会うんじゃないか?小さくなってよう、目立たなくなろう、と、卑屈に思ってしまう。そんなこんなの心の変化で、例えば車窓からバス停横のおしろいばなを撮ったりしていたことを自粛するのだった。
バスは10分かせいぜい15分かな、辻堂駅に着いた。海側のバスターミナルからまっすぐ南に伸びた道を歩いてみる。ちょいと店構えが小粋な蕎麦屋があって、入ろうかなとも思うが家を出る前になにやらちょちょいと食べてあるので、やめにする。数ヵ月前にYさんがオススメメールをくださった店なんだと思う。Yさんとはずいぶん会っていないが、彼もblogを辞めずにいるので、私よりもずっと知見に富んだ高尚な話題なのだが、いずれお元気なことと思う。SNSが主流になってから、私がよく読んでいたご本人を知ってたり知らなかったりの「愛読」ブログが、ここ二年くらいで一気に閉鎖もしくは放置された。閉鎖はこの場合、閉山て感じ。
よく読んでいたblogったってせいぜい10個(個でいいのかな?)くらいで、そのうち現存し(消去されず)生存(更新される)しているのは3個くらいの印象だ。それともひとつのblogの平均寿命からして、ときどきは新しく読みはじめるものを増やさないとこうなるのは当たり前で、SNSの影響はないのかな?私が(またぞろ年齢を重ねてって言うありきたりの理由しか、いや、言い訳かな、それしか思い浮かばないのだが)新しく生まれているblogの中から自分に面白いものを発見することができなくなっただけなのかな?
街があって、その街との自分なりの付き合い方ができたとして、その付き合い方を構成する要素には、行き付けとかよく行くとか、よく利用するとか、××の用事が出来たらあそこに行けばいい、と言った具体的な店舗などがあるし、歩いている歩道から見える道の曲がり方や坂道の様子、植えられている街路樹の種類や季節ごとの色合い、あるいは中に入ったことや利用したことはなくても小さなランドマークとなっている建築、などがある。人もそうだ。その街で知り合った何人かの、少なくても大事な人たち。
同じ写真がここにあっても一人一人、その写真から感じていること知ること刺激される記憶、そう言ったことが全て違うから、そこまでふくめて写真ならば、同じ写真はひとつとしてない。
それと同じように、一人一人にあって、誰とも同じでない街がある。そしてその街の上記のような構成要素が、かなりのスピードで変化していく。閉店したり建て替えられたり、更地になったりメニューが変わったり、人が死んでいなくなったりどこかへ行ってしまったり。
その喪失をオートマチックに補完修正して新たな「自分のその街」を更新し、同じようにその街で暮らしていける。そうであればいい。しかしその補完修正か出来ないと、街が変わってしまって生きにくくなった、とか、つまらなくなった、とか、居場所がない、とか、そんな風になるんだろう。街歩きして写真を撮っていても定番被写体は、私の場合「古いもの」であることが多いから、ある日更地になっしまっいもうその建物がない、と知って愕然とすることもあるのだ。そしてやはり補完修正が難しい。
街はどこもかしこも総じてつまらなくなっている。と私は思うが、もっと若い人たちは、私がそうだったように新しいそれらを歓迎しているに違いない。
と、極めて回りくどい比喩をもって言いたかったのは仮想空間であるネットでも同じようだなと言うこと・・・に過ぎないわけです。気に入っていたblogが閉鎖または放置となり、それを埋める新しいものが見つからない。見付ける努力が億劫なだけか、何かが変わって(SNSの普及など)しまったのにそれを追えないからか。
どんどん歩いていく。パン屋があったから入ってみる。小さな食パン、クリームチーズが使われたパン、他にもいくつか、家族の一人一人の嗜好を思い浮かべて、あれこれと選ぶ。
また歩く。すぐにこの上の写真を撮ったカフェに行き当たり、入口でコーヒーだけでもいいですかー?と言ってみて、もちろんどうぞ、と言う答えを聞いてから店内に入る。カウンターの丸椅子に座る。コーヒー、深煎りの方。後半に差し掛かっている「昼の家、夜の家」このカウンターで読了。最後は写真のことが書いてあった。語り手の「私」の配偶者?パートナー?のRがテラスにカメラを据え付ける。二本のトウヒのあいだに見える空を毎日一枚撮っていくことをはじめようとしている。Rは秋まで写真を撮り溜めれば、必ず何かがわかると確信している。撮り溜めた写真から一枚の写真をコラージュしたりPC上で写真を重ねていわゆる多重露光をしたりで作り込む可能性が開示されている。多重露光とかコラージュって単語は使われていないけど。
こんな小説の終わり方を読んだことで何か影響があったのか、カフェの、この写真にも写ってる、棚に立て掛けてある小さな鴬色の額に入れられた写真になにが写っているのかが、とても気になりはじめるのだった。細い道に入っていく人の後ろ姿かな。道が白いのは砂か雪か、どっちかなのだろうか。かといって店の方を呼んで、聞いてみるほどのことでもないだろう。
曇り空は低い。いつ降りだすかわからないが、家を出てから、今のところはまだ一度も、雨は落ちて来ない。