アイロンプリントの


個人でパソコンを買ったのは1994年頃かなぁ、パワーマック6000だったかな、いや、6000なんてなくって、6100だか6300だったかな?当時は会社でもパソコン一人に一台の前の時代で、ひとつの課に一台、くらいな感じだった。
友人からもらったピクトなんとかって言うお絵描きソフトがあって、まだ3歳かもしかしたら2歳だった娘が、盛んにそれでお絵描きをして遊んでた。
あの頃はCDに焼かれたソフトが、何人までインストール可能とか、まだ全然明確ではなくて、いろいろ回ってきたのをインストールしていた。フォトショップは3とか4の頃だろう。
第一、その最初に買ったパワーマックは、ワープロに代わって文章を書くのと、写真をいじることがどれくらい出来るものか少しづつ試してみよう、と言うのが目的で、(今から思うと)なんと!と驚くのだが、ネットにつなげてはいなかった。
その二年後か三年後にパソコンを富士通のウィンドウズマシンに買い替えたときに、はじめてネットにつなげた。
パワーマックの頃の作業スピードは相当に遅かった筈なのに、意外にいろんな成果物がいまも残ってる。マシンの処理速度が遅くても、操作するこっちには手順の無駄や余計なミスや、逡巡がなかったのかもしれない。
それまでゼロ円同時プリントの写真を繋げて作っていた、ホックニーのコラージュに感化された作品作りを、パソコン作業で行ったら意外にやり易く、だってコラージュ作品はL版プリントでやってると作品サイズがB全などと大きくなるのでスペースが必要だったのが解消されるし、以降はパソコンでやるようになった。そのためにフイルムスキャナーを買ってきた。1200だか1500dpiくらいしかないけどそれでも充分に楽しめた、読み込みがやたら遅いフイルムスキャナーを使い、今から思うと信じられない低画質の、当時は目覚ましい進歩の途中であった家庭用インクジェットプリンターでいろんなことが楽しめた。機材がすっかり進歩したいまなのに、あの頃と比べると新しくこんなことをやってみる、が全くなくなった。機材の進歩とともに、いままでできなかったあんなことこんなことを試す。意外に面白いものが出来上がる。じゃぁ、これもやってみよう、となる。機材が必要十分を遥かに越えて、なんでもござれになると、かえってあれこれ試さなくなる。できるに決まってる。そうわかるとつまらないのかな。
まぁ、今で言うzineとは中身のテイスト、乗りが違うけど、文章と写真とお絵描きを組み合わせた16ページくらいの旅行記、思い出せるのは松山に行ったときのものとかを、3部か4部ホチキス留めで作っては、親しい友人に送ったりもしていた。
その頃のコラージュ作品のプリントや上記の手作り旅行記なんかがいまもとってあって、意外と色褪せもせずに、なにかの拍子に見返すとちょっといい感じさえする。
そんなパソコン遊びの初期に、アイロンプリント用紙が売り出され、そこでオリジナルTシャツを作って遊んだことがあった。
写真のTシャツは、今でも寝巻きがわりだったり、まぁ会社から帰宅後に着替えるありきたり普段使いの一枚として使われ続けている、そんな自作のTシャツ。この頃に二回か三回、そんな遊びをやって、以降はもうやってない。結局子供と遊ぶついでに自分用のも作ってみたってことか。
このオリジナルTの絵は、色使いをブルーノートの、ハービー・ハンコックの「処女航海」に似せて、写真は上記のフイルムスキャナーで読み取った自分が撮った写真を使っている。夏の終わりの茅ヶ崎漁港で撮った、当時、十歳くらいの息子の後ろ姿が写っている。よくみると、青い写真の部分の下の方に黄色い字で曲名が書いてある。即ちこれは架空のジャズのアルバムなのだった。
曲名は架空ではなくて、実際のスタンダード曲が書いてある。星影のステラ、四月の想い出、フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン、等々。
四月の想い出、は、マックス・ローチクリフォード・ブラウンのベイシン・ストリートのアルバムに入ってるのが好きだ。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンは、レッド・ミッチェルとジム・ホールの76年か77年の来日ライブ盤の。ともにジャズを聞き始めた頃に買ったレコード。なんでも最初の頃に親しんだものが大事になってる、そう言うものかな。
架空のアルバムの最後の曲はハービー・ハンコックの処女航海、この架空のジャケットのお手本となったアルバムに入ってるドルフィン・ダンス。87年か88年のMt.フジ・ジャズフェスティバルで、ハンコックがソロ演奏したこの曲が素晴らしかった。素晴らしかったと言う言葉を覚えているが、ではどんな演奏か、音としてはフレーズとしては、テンポとしては、実はなにも覚えてない。