雨雲接近

公文健太郎写真展「耕す人」
http://cweb.canon.jp/gallery/archive/kumon-tagayasu/index.html
のウェブ情報などを読むと、日本人の原風景や消え行く農村の暮らしを記録した写真の写真展、と言うようなことが書いてある。
先日チャスラフスカさんが亡くなったとき、それをきっかけにクーデルカが、プラハへのソ連侵攻をとらえた写真を何枚か見返した。プラハの春チェコ民主化)に賛同する二千語宣言に署名したのちに、ソ連の侵攻により民主化が閉ざされ、そうなっても署名を撤回しなかったチャスラフスカさんを襲うその後の苦難のことは、その訃報をきっかけに放送されたNHKの特番などで、今となってはよく知られている。
クーデルカの撮った写真には、特に自分の拳を握り、腕時計が写った左手の写真かあることで、写真家が主張を排除した記録者たる立場ではなく、抗議をする側に立っている強い意思を見せている、と思う。
そう言う具体的な強い一枚があるわけではないのかもしれないが「耕す人」の写真展を見ていると、写真展の案内に書かれた、消え行く日本の原風景の記録、と言った側面よりも、写真家の思いのようなことが、記録だけではなく、写真家が被写体を前にしながら喜怒哀楽取り混ぜた様々な感情を心の中で波として起こし、起こされる、そう言うことが、二周三周と会場を回っているうちにひしひしと感じられるのだった。
記録者としての発意と、人間としての実施(現場)が包み隠さず吐露されている感じがして、あーなんか良心に基づいた好感の持てる生き生きとした写真展だなぁと感心した。

話が変わって、今日も車窓からの写真を載せている。この写真を撮ったときに乗っていた電車の窓はきれいだった。窓が汚れていたり曇っていたりすることは多い。特にカメラを窓枠の縁に置いて水平を保って撮るときには窓ガラスの一番下の方を通して写真を撮ることになるが、ガラスの周縁部は特に汚れている。そう言うとき、写真はソフトフォーカス写真のようになる。それはそれで悪くもないが。
すなわち窓ガラスの汚れ方に応じて向き不向きの被写体がある。今日の電車の窓はきれいだったから、こんな人のいない風景がきれいに写った。
それにしてもひまわり畑、一斉に頭を垂れるんだなあ。