フィオナ・タンの富士山の新作を見に行く


 秋分の日。天気はずっとぱっとしない、今日も雨です。
 車を運転して、箱根のポーラ美術館に行き「ルソー、フジタ、アジェのパリ」を見る。私はアジェの写真をどう見ると、いろんなところで書かれたり言われたりしているような素晴らしさが見えてくるのか、近代写真の父と呼ばれるほどの感銘がどこから得られるのか、これが情けないことになかなかよく判らないのです。最近の調査でフジタもアジェから写真を買っていたことが分かったらしい。解説文を控えてこなかったからすっかり忘れてしまったけれど、フジタはアジェの写真を、絵のための資料としてアジェは写真を売りに来たが彼の写真に写されたパリは・・・、と言っていたそうだ。って、肝心の・・・をよく覚えていないなあ、図録も買わなかったし。例えば、日常を写しているがそれゆえ見るものに様々なことを想起させる、なんてことだったかなあ。まったく違うかもしれません。アジェの写真はたくさん展示されている。最初の三枚(四枚かな?)はアジェ自身がプリントしたビンテージプリントだった。都写美の所蔵品だそうだ。今回はアジェの良さがわかりかけた気がした。扉が半分開いた感じ。好きな異性に積極的に近づけないが、長いことずっと遠くから見続けているような愛おしさの表現、パリという街にアジェは写真でそういう風に接していたのかな。それとも画家たちはこういうところを絵に描きたいだろうと常に考えながら歩いていたのか。いや、こういうところを背景にしたいだろう、かもしれない。あくまで背景を撮る気持ち。それが新しさにつながった?また見に行こうかな。
 そのあと、クレマチスの丘、伊豆フォトミュージアムへ。フィオナ・タンの「アセント」と題された、一般公募で集めた富士山の写真を使った映像作品(77分)を見てきた。チケット売り場で77分と聞き、途中で退出しちゃうだろうな、飽きるだろうな、と思ったのだが、まったく飽きない。最後まで面白く鑑賞。写真にかぶせて英語を話す女性と、日本語を話す男性の、会話形式だったり独白のようだったり、音声が入ってくる。内容は日本の伝統のことから、山に関する古い映画のことから、この二人の関係(思い出)を示唆することから、実際に富士に上っている様子まで。
 ちょうど磯崎憲一郎著「往古来今」を読んでいる。ここに収められた小説は、なるべく事前の物語の構築や設計をやめて、赴くままに、普段我々が例えば電車に乗っているときに景色を見ながら頭のなかでつらつら考えながら、なにかのきっかけでその主題が自分では違和感なく、もし誰かに頭の中を開陳してしまうとまったくもっと呆れられてしまいそうな、そういうジャズでいえば即興演奏のような、「その場限り」であることに集中していくような、そういうところが面白いわけだが「アセント」は緻密に構成された即興演奏の演出の結果のようだ。磯崎憲一郎の小説も、考えようによっては緻密に構成された即興演奏だろう。
 たまたま読み始めた短編小説がつまらなくて、ほかのも読み始めて、またつまらなくて、またほかのも読み始めて・・・「往古来今」だけが次の一編も読んでみたくなるのだった。そうならずに一つか二つ読んで、ああ、この感じのこの路線なのね、と「見えてしまい」次のは「もういいや」となってしまうのは、残念なことです。
 写真は箱根の何とかいう峠の駐車スペースから見下ろした駿河湾