トーマス・ルフ展@東京国立近代美術館

東京国立近代美術館で開催中のトーマス・ルフ展を見てきた。ルフの最近作の、抽象画のような作品は、ティルマンス最近作同様、難解さが増している気がする。写真を見ていたらロックバンドのレディオ・ヘッドのことが、突然、思い浮かんだ。いや、なに、私はレディオ・ヘッドをちゃんと聴いたこともない。何年か前、アルバム「イン・レインボウズ」の価格が消費者任せでゼロ円でもダウンロードできた、と言う話題が盛り上がったときに、何枚かのより古いアルバムをBOOK・OFFで買った。それをiPodに入れていたが、最近は全く聴いてない。
すなわちレディオ・ヘッドの音楽の変遷を自分なりに、ちゃんと聴いたわけではなく、むしろどこかで記事やネットの書き込みを読んだことをそのまま聞き齧っているだけなのだか、なんかレディオ・ヘッドの音楽の変遷と、トーマス・ルフの写真作品の変遷に似た感じを受けたりした。思索が深まり、同時代性の追求、最先端の画像処理を取り込む手法、その結果の見たこともない新しさや美しさ、一方で見たことがないものをどう見たらよいかわからない鑑賞者の不安。多分だけど、どんどん遠くへ行くトーマス・ルフへの大衆の支持は限られていき、先鋭的美術の世界で、支持は増加する、そんなことになってない?
ロック界、と言うよりも音楽界のなかのレディオ・ヘッドもそうなのかもしれない。
聞き齧りの曖昧な感想。
トーマス・ルフの展示は最初の壁はみずから撮影した友人の大型ポートレート、ついで精緻な建築写真は撮影後複数の駒をPCを使って繋いだりしているようだ。だが、自分で撮影している。次の知人の部屋の室内を撮ったシリーズはウィリアム・エグルストンを思わせるようなところもあるが、影響されたのはウォーカー・エバンスとのこと。もっともこのシリーズのきっかけになった椅子の写真はベッヒャーが、学生だったルフに出した課題だったそうだ。このあと、湾岸戦争で使われたナイトスコープを使ったシリーズと、どこぞの警察が使ってい犯罪者の顔写真を記録する四コマ合成のカメラを使った知人のポートレート、以上はルフが撮っているが、古いネガをネガのまま、すなわちモノクロが反転したまま青っぽく調色したシリーズや新聞の記事に添えられた写真から記事を除くと写真はどう見えてくるか?を考察したシリーズからは、もうほとんど自分では撮影しておらず、ネット上に無尽蔵に溢れる画像を使ったり、火星探査機が伝送してきたデータを使ったり、こうなると写真家上がりと言うだけで、現在のルフはもっと広く美術家なのだろう。そして、ある種の作品、その発意は、ゲルハルト・リヒターにも似てる感じがしたのは門外漢の間違いかな?
もっと乱暴に言えば、ルフのたどった道は、道なかばではあるものの、ジャズで言えばコルトレーンのそれでマイルスではない、とか?違うか・・・
それぞれのシリーズのコンセプト、作品を作り始めた発意のところ、展覧会の解説文が的を得て簡潔に書かれていたこともあるかもしれないが、とても純粋で少年のような探究心から始まっていて、ただそのあとの究め方、集中力、細かいこだわり、がすごいことなのだ。また、それを組み取り評価してきたドイツ写真の文化も。そう言うルフの根底に、写真の歴史の理解と先人へのリスペクトがあるのも素晴らしい。
大変楽しめました。