日曜日の朝

12月最初の日曜日の朝、カメラと財布を持って近所の散歩をする。動機は近くの神社にある大きな銀杏の木を見物に行こうとかんがえたこと。
昔・・・と言うのはこの場合は五年か十年か前のこと、近所の散歩にもっとずっと頻繁に行っていた。神社の横の道を北に進み、中学校を越してから左折し、上に新湘南バイパスが通っている小さな川の橋を渡る。正面に寺を見て右折すると、家庭菜園も含む畑地が広がっている。畑地の中を鉄塔が連なっていき、工事中の高速道路が畑地の北の方を横切る。今はもう開通した圏央道だ。北に向かうと重なっていた川と新湘南バイパスがY字形に分かれて、最初の橋の手前では川蝉を見ることもあった。冬に、家庭菜園から現れたおばちゃんに呼び止められて、冬のアイリスが咲いたから写真を撮って行っていいわよ、と言われたり。畑地を西へ越えると住宅地で、建て込んだ家々のすき間のような場所の小さな公園に古い遊具と数本の桐の木があった。桐はゴツゴツした幹で、生えている場所が、公園の敷地のどれか一辺に添った片隅にきれいにまとまって並んでいる当たり前の配置ではなく、適当に生えるに任せた感じ、投げやりな感じがした。多分、先に桐があり、その木を残して公園にしたのではないか。公園の横を通って住宅地の細い路地を抜けるとバス通りに出る、その手前には廃車のバスが物置として置かれた広場があり、物置としても使われなくなっているらしく車内に入り込んだ、即ち床が抜けていたのかな、蔓植物がさすがに窓を割ってしまうことは出来ずにたくさんの葉をバスの内側から窓に押し付けている。バス通りを少し北に行くと昭和四十年代頃に普通だったような瓦屋根の平屋の建物が珈琲焙煎を掲げていて入口はガラスの引き戸で、昔の駄菓子屋みたいだと思う。その辺りから引き返してくる散歩をよくしていた。
なにがきっかけで、例えば月に一度くらいは出掛けていたこのご近所散歩から遠ざかるのかな?高速道路の工事は終わって重機が動き回っている光景は見られない。宅地の中の桐のある公園は無くなって分譲住宅になった。バスは撤去され駐車場に。珈琲焙煎の店はまだあるようだ。
そんな風に散歩コースのなかに自分として「強いて言えば少し意識的に見ている好ましく思う光景」があることが重要で、その幾つかがなくなると、自然と遠ざかるのだろう。
問題はそう言う「好ましく思う光景」の多くが、新しいピカピカのものではなくて、懐かしさに裏付けられていたり、廃車や廃屋などの打ち捨てられたもの(そのうち片付けられて無くなるもの)ってことなのだ。いままで見落としていたそう言う光景に出会ったり気が付いたりすることもあるだろうし、ときを経て味わいが出てピカピカから変容してその手の光景に仲間入りしてくる場合もなくはないのも。しかし、総じて言えばどんどんそう言う光景、私的な尺度で好ましいと判断なされる光景は無くなっている。
街角で人を中心としたスナップは若い魅力的な女性やそれこそ「懐かしい」部類に入る若さゆえの我が物顔で闊歩する男の子や、同年配の伯父さんやおじいさんへの共感があるから、まだ撮りたい光景は維持継続される。風景や花は被写体が自然相手なので、もちろん風景は土地の開発でなくなることもあるけれど、まぁ、車に機材を載せて海辺や山岳や、朝焼けや夕焼けどきや、最近はカメラの発展に伴って快晴の高原に行き星空を撮りに、等々出掛けていく余地はある。
だからそう言う方向に引っ張られて、近所を歩く回数が減ったってことだろうか。引っ張られた先にある上記のような被写体がフォトジェニックってことなのだとしたら、身の回りのフォトジェニックが減っている。
それでも何か、ここからが勝負って感じで、こじ開けるように、なにかをそれでも撮る、ってことが大事なのかな。ときを経てその大事さが見えてくるような。
右の大銀杏はまだ紅葉のピークではなく、左の銀杏はもうピークになっている。