夕暮れどきから横浜港あたりを


『ララは北イタリアの家族が大きな祝いの席で庭に集まっている写真を思い浮かべた。知らない人たちがたくさん写っている写真、母親でさえ名前の思い出せない人が何人もいる。(中略)写真は色褪せて、実際よりもまぶしい感じになっていた。まるで、太陽がこの写真のなかにとじこめられたみたいだった。明るくて容赦のない、子ども時代の太陽。』(ペーター・シュタム著「スウィート・ドリームス」より)
 読んでいる本が小説だろうがなんだろうが、写真についてのことが書いてあると、物語を追いかけている読書が中断されて写真について書かれていることについて理解しようとする。そのときに、そこに書かれたことを疑ってみたり否定したくなったりは、まったくしないのだ。どんなことだろうと、それが写真について書かれたことであれば、みなすべて肯定している。誰かが、この場合は作家が、とある写真を見てそう感じたのであれば、それは正しいのだ。別の誰かが正反対のことを書いていて、二者択一しなければおかしいかのように対立した見解が書かれてあっても、どっちも正しいと思う。その写真とその誰かと言う個と個のあいだに生まれる「唯一の」関係はそれしかないのだから。

 今日は、午後3時頃になって横浜方面へ行ってみる。昨年末に同じ横浜の住宅地を三か所歩いたが、今日は横浜の主要観光地にあたる「大桟橋」「山下公園」「馬車道」「野毛」あたりをずーっと、一度も休まずに歩き続ける。暗くなるのはわかっていたので、今日は24mmの手振れ補正付レンズを使うことにする。こう毎日毎日使うレンズを変更していると被写体に向いたときにどこまでが写る範囲かと言う感覚が定まらずあやふやになる、ような気もするが、数枚撮れば、今日はこんな感じね、と試運転が終了した感じになるのだった。

 今晩の晩飯はそれぞれ勝手に取る、と言うことにして、桜木町駅から動物園通りに入ったあたりで見つけた餃子をイチオシにした大衆中華の店に入る。この時間におっさんが一人で店に入ればなんだかビールあたりのアルコールを頼まなくてはならないようなちょとした「脅迫観念」(的なこと)にとらわれる。それで飲めないのに、よく生小とかなにかの酎ハイだかを頼んでしまい、真っ赤になって店を出るのだが、今日は頑張ってアルコールを頼まない。もちろんそれで怒られたりはしないわけだ。
 今日の昼間、BSの何番かで「孤独のグルメシーズン5」一挙再放送から三つか四つの回を観た。松重豊演じる主人公は下戸と言う設定で、それでも居酒屋のコの字カウンターに座って呑み助のあいだでウーロン茶を飲みながら、ものすごくたくさんの量を食べている。そんな些細なこともちっぽけな「勇気」のようなことにつながっているのか、アルコールを頼まない、と言うちっぽけな勇気。いや、でも一方で青島ビール一本くらいは飲もうかな、とも思ったのである。ちゃんと「希望」として。だけど遡って、飲めないくせに昨晩はコンビニで買ったワンカップ白ワインを飲んでそれこそ真っ赤になって早々に眠ったのだった、とか、その前の前の晩にはほんの猪口に二杯だけだが冷酒を飲んだのだった、とか、思い出して今日はアルコールは止めようと計算したりもしている。アルコールがダメな人は少量でも肝臓に負担がかかるらしい。私の定期健康診断の肝臓の結果はいつも晴れマークとはいかない。
 それで頼んだのは青菜炒飯と焼きギョーザのセット1050円。いや、1080円だったかな。最初にどかんと炒飯が出てきてそのあまりの量にたじろぐ。いつも夕飯のご飯の量は少な目にしていることもあるから、これを全部食べると、普段の5倍って感じの量だった。ついで焼きギョーザ五個が来る。
 昔見た邦画「洗濯機は俺にまかせろ」で、餃子のタレには醤油は使わず、酢とラー油のみで作るのだ、と言うことにこだわった男が出てきた、と思う。あいまいな記憶なのでほかの映画だったかもしれないが。宇都宮の餃子の某でもそんなようなことが壁に書かれて貼ってあった、と思う。これもあいまいな記憶だが。そこで酢とラー油を主として、醤油は数滴垂らす程度でタレを作る。一つ目は熱いのでハフハフと食べる。すごくおいしい。
 炒飯も美味しい。でも食べきれなかった。