木立


 これも父が昭和40年代頃か、もしかしたらもう少し後かもしれないが、いずれにせよ相当に古い写真。父は油絵が趣味だったが、外でイーゼルを立てて実景を見ながら絵を描く時間的な余裕があまりなかったせいか、休日に家の廊下などに新聞紙を広げて間違って絵具を落としたり飛ばしたりしても汚れないようにし、イーゼルもその場所で組み立てて、写真に撮って来た風景を見ながら描いていた。いや、違うな。そういう父を見ていたから、そういう風にして描いていたのは本当のことだが、知らなかっただけで外でも描いていたかもしれない。
 昭和50年代だったろうか、父が属していた学会関係の洋行だったのかな、父はヨーロッパ旅行に行き、帰宅後にヨーロッパで撮って来た写真を見て絵を描いた。ヨーロッパアルプスをバックにしてハーフティンバー風の建物とカーヴした道、その道に出ている点景の人のいる絵などは、中望遠レンズの圧縮効果が描いた絵にも見て取れた。
 たぶんだけど、この写真はそういう風にして描く油絵の題材にしたかったから撮ったのではないか。複数の写真に写っている要所要所を抜き出して組み合わせ、一つの風景を作っていったようなこともしていたと思う。組み合わせるのを前提としているならば、その写真は写真としてうまく撮ろうとか美しく撮ろうとか、そういうこととは無縁だ。目的が違うのだから。
 そういう理由があるのかないのか、父はもうずっと前に亡くなったから聞くことは出来ないが、うまく撮ろうとか美しく撮ろうとか言う媚のない写真だなあと、いまの私はそう思った。
 須田一政写真展 IN A FLASH が横浜のギャラリーで開催中。もうじき終わりだけど。http://pastrays.com/exhibition/2017/1104
 そのなかに、たぶん、須田さんが助手席に座って否応なく流れ去る(でも赤信号ならしばらく停まっていることもあるだろう)窓から見たのだろう木立が写った写真があった。展示作品のなかでは比較的大きなプリントだった。須田さんが写真展の案内ページに「風景は容赦なく目前を通り過ぎ、いわゆるシャッターチャンスも捉えきれない。それが恰も抗うことができない時の流れのように、歩行も覚束ない老年の私を妙に納得させるのである。」と書いている。
 こういうふうに、写真の背景を想像したり、テキストで補足されながら、写真を眺めると、媚のない写真を撮るむずかしさ、すなわち無人撮影×無作為抽出で選んだ画像がそれに相応しいかと言うと決してそうではないむずかしさって、それってどういうことなんだろう?と考えてしまう。