鳥取砂丘 昭和40年頃


 同じく昭和40年頃に父が撮った写真。場所は鳥取砂丘だと思われる。それにしてもどうしてこういう構図になったものか。右のラクダは顔の途中で切られている。左のおじさん(このおじさんは歯科医のA先生でスティーヴ・マックィーンのようにカッコ良かった)も、ぎりぎり画面に収まっている。たぶん使っていたカメラはオリンパス35S1.8初代だと思われる。もうちょっとカメラを右にずらすとA先生は画面に入らない。ラクダに乗った女性と、その女性を写真に撮る男の後ろ姿。そうすれば構図としても落ち着きのある写真になっただろう。しかしそう撮っていないからこそ、なんでだろう?と言うふうに写真に「誘われて」推理をするようになる。父は、A先生と写真を撮る男の後ろ姿と、ラクダに乗った男性、その全部を画面に入れたかったのだろう。この場面で構図的に優れた写真を撮るよりも、旅行に来た記念として、A先生を画面に入れる必要があった。それがより重要なことだった。そういうことだろうか?
 写真が撮られたときからずいぶん時間が経った。そうして今こうしてこの写真を見ていると、上記のような推理をしながら眺めているこの写真は実に面白い。きっと構図的にまとまりの良い風に、A先生が入らない、より右を向いた構図の写真が残されていたら、私はこんな風に注目しないだろう。
 これは一体どういうことなのか。時間を経ると、教科書的では「ない」写真に写った一瞬の心の動きが見えてくるようになるのか。それゆえに面白さがぐぐっと増すのだろうか。