遥か遠くに消えかかった


 九州から東京に戻る飛行機から遠い雲の上にぼんやりと浮かぶ富士山を見つけた。主翼の横の席で写真を撮るのが難しかったが四倍のズームを望遠側にして雲の上に顔を出して浮かぶ富士山をこうして写真に撮りました。いや、正確にはその写真をさらにトリミングして拡大しているのだった。
 この茫洋とした感じの富士山。青空を背景にくっきりすっきり見えている富士山ではなく、一面の雲のなかにまさに童謡にうたわれたように「頭を雲の上に出し」ている富士山。ほかの山々が雲に隠れて見えないのに唯一見えた富士山。
 なんか道標のようだ。いや、この飛行機のこの航路の道標たると言うような意味ではなく、青臭い言い方ではあるが人生が時間の流れのなかを幸せを求めたり、誰かにいろんな種類の愛情を注いだり、誰彼からいろんな種類の愛情を注いでもらったりしながら、右往左往しても未来をたぐり現在を呼吸し過去へと受け渡す連続である、そういうことの道標のようだ。
 こういう風に富士山を見て感じることが日本人なのだろうな。昨年、伊豆フォトミュージアムで見たフィオナ・タンの富士山の動作作品にはそういう日本人の「富士山観」のようなことがよく語られていた。