何かに例えられる写真


 写真家十文字美信さんが運営するギャラリー・ビーに申し込んでおいた写真集を受け取りに行く。展示されている(写真集にも収録されている)夜の海面を撮った写真に魅せられる。暗い中に、それでもかすかな光、街の光なのか船の光なのか、はたまた月の光なのか、かすかな光を受けた波がスローシャッターなのだろうが、完全にグレーに溶け込むのではなく、形をとどめて写っている。さざ波が海面ではなく、年を経た松の幹のように見える。別の写真では、波がしらの白が、素早く走る抜け目のない狐の形に見える。あるいは波がしらと雲と月の白がモノクロームの写真であるのになぜだかシャガールの絵を想起させる。こういう写真は注意深く見ようとしなければ一瞬にして目の前を通りすぎていってなにも残らない。見る者の態度が問われている気がする。写真家ご本人がいる(どなたかとお話されていて、その会話(写真についての熱心なお話)がちらちら聞こえてくる)静かなギャラリー内で、ちゃんと写真を見ようとこちらも正対するエネルギーがあるから、写真がいろいろなことを投げかけてくる。いや、写真に私の記憶がゆすぶられるとでも言うのかしら。何かに例えられる写真、音楽のなにかに、小説のなにかに、感情のなにかに、そういう「感じ」が沸き起こる写真の力について考える。これが身体性ということなのか。

 暑くて歩くのが億劫だ。昨年より、あるいは数年前より、散歩の距離が短くなっていると思う。体力が落ちているのか気力が落ちているのか。土曜日の午後2時半のレンバイ(野菜の直売所)にはまだ数多くの野菜が残っていた。色とりどり。美しい。大きな野菜が多いですね、カボチャとか。だから重そうで買えない。買わないと写真を撮ることに気が引ける。

 カメラをぶらさげて夏の昼間の海水浴場には接近するととんだ誤解に基づく疑いを掛けられるから行かない。カフェ・ロンディーノで珈琲を飲み、このレンバイを見て、丸七商店を通過して、ただそれだけで帰って来た。でも夏の夕方は湿度が高くても海風が吹き抜けていき、光と影と濃い緑が美しい。

 ところで「身体性」をウィキペディアで調べても、あまり詳細な解説がない。分野ごとに使われ方(意味)が異なるように書かれてあり、各分野の「身体性」の説明は「加筆が必要です」にとどまっている。唯一、認知科学人工知能の分野では『物理的な身体があることによって、環境との相互作用ができることにより、学習や知能の構築にもたらす効果や性質を指す』と説明されている。ここで環境を写真に置き換えると
『物理的な身体があることによって、写真との相互作用ができることにより、学習や知能の構築をもたらす効果』となる。
さらに、学習や知能のところは「深考」とか「思索」ってことにしてしまうと、
『身体性のある写真とは、人と言う物理的身体(五感?)と相互作用を結び、深考や思索を構築する(発端となる)写真である』
ということなのか。するとこのレンバイのような被写体が具体的な写真は、表面をなぞっている分だけでは身体性は隠れていて引き出しにくいってこと。そうすると、それを引き出しやすく仕掛けることが写真のうまさや力ってことになるのか?
 そのためには写真表現の抽象性の方が親和性が高い気がするが、一方でひたすら深い深度とひたすら高い解像力で撮られた写真にもその機会はあるかもしれない。その機会の確率は決定的瞬間とかそうでないとかとは尺度が違うんだろうな。
 とかなんとか何年経ってもどうどうめぐりの写真への考察。