いつもの渋谷 長島有里枝展など


 久しぶりの晴れの休日に、久しぶりに都内を歩くが、年齢とともに徐々に徐々に体力が衰えてきているってことなのか、数年前と比べると明らかに歩いている距離が短くなっていると思う。情けないなあ。
 まず東京都写真美術館長島有里枝展「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々」。これは長島有里枝の上を流れた時間。カメラを手にした十代後半?から今までに流れた時間を明示するような写真展だった。そしてこの頃は・・・と続いていくような。壁に掲げられた一枚一枚の写真からも、並べられたり映像で短めの切り替わり時間で流れるスライドショー提示されたりするその大量の写真の一枚一枚からも、はっとするような、規定の「良さ」(数有る写真コンテストの評価基準に当て嵌めたような「良さ」)は少ない。ほとんどの人に流れている多くの着飾っていない時間が、写真家をサンプルにしてただただ示され続ける。いや、もちろんそのなかには砂浜の鳥の群れの白黒写真など、はっとするものもあったし、比較的歳を経てもう肉体的に若くない写真家のセルフポートレートの中には大人になる凄味が写ってもいるからそんな風に片付けられない訳ではあるが、そう言う規定で観ることに慣れ、それしか観る規準がないと、何がなんだか迷わされるんじゃないか。
例えば駅のホームでラッシュアワーに一人ベンチに座り、騒音と行き交う人が作る光景をただ五感で受け続けるようなこと、それがこの写真展を見るような感じかもしれない。それが繰り返し繰り返し何十年も続いていて、まとめてみると変化していることと変化していないことが見えてくるが、それは哀しいことも多い。部分的にはいつも哀しくて、総体的にはそれでも幸福と言ったような。もしかしたら数十年後にいちばん力が出てくる写真家なのかもしれない。次に行くチケットをWeb予約してあった映画の時間が決まっていたので、セルフポートレートのスライドショーを全部観てしまったら、壁の展示作品をゆっくりと眺めてる時間が取れなかったのが残念でした。
古着のテント(オブジェ作品)は以前、外苑前辺りのギャラリーの個展でも観たことがあったが、今回少し腑に落ちた、咀嚼できた気がする。
 次にBunkamuraル・シネマで「ル・コルビジュエとアイリーン 追憶のヴィラ」を鑑賞する。全編流れ続ける音楽がひどく邪魔。愛憎劇です。
 それから六本木ミッドタウンに移動して、招待券をとあるところからいただいていたグッドデザイン賞展に行ってみる。今年の受賞作、今年の候補作、いままでの受賞作、等々がいくつもの会場で展示されている。いまの日本のいろいろな商品開発や都市開発が、その目的において癒しを求めるというか幸せを目指すというか優しさを得ようとしているというか自然に戻ろうというか、いやこれはこの賞の受賞基準がそうだというだけなのかな、なんだかそういうことがひしひしと感じられた。いいことでもあるし、それでは弱くてグローバルの中で大丈夫なのかと危惧したりもする。気のせいかな。
 最後に同じミッドタウンにある富士フイルムスクエアで大原治雄展を見る。
 街角スナップも、うまくいかないし、まあもうちょっとは面白い写真があっても肖像権うんぬんも気になって載せられないし、なんかちょっと憂鬱な感じが残ってしまう散歩の日でした。