失くした写真


ユーミンの 埠頭を渡る風 って曲に

♪セメント積んだ 倉庫のかげで
ひざをかかえる
あなたは急に幼い
だから短い キスをあげるよ
それは失くした
写真にするみたいに♪

と言う歌詞がある。

某さんとこの歌詞の意味について、軽く論争中。

この歌詞のなかの男と女にどういう物語があったのか?曲を聞いていてもひとつの物語を確約出来ない感じ。聞く人によって様々な解釈、と言うか創作が生まれる。聞き手に歌詞の物語の解釈を委ねる。正解はなくて、いやユーミンが歌詞を書いたときにユーミンが考えていた物語が正解とも言えるのかもしれないものの、そうじゃない解釈も、ユーミンには正解じゃなくても、そうじゃない解釈をした人にはその不正解の物語が正解なのだ。どうとるかの汎用性?冗長性?寛容さ?の高い歌詞ってことか。

無名性が高く、ありふれたところを撮った写真が、見る人個々の記憶や性格や価値観や経験によって、あるいはその日の気分によって、様々な見え方をする。埠頭を渡る風 の歌詞に秘められた物語は、そんな感じで、聞く人それぞれで違う解釈を許容している感じ。

とかなんとか、同じようなことをダラダラ書いているが、気になったのは
「短いキスをあげるよ、それは失くした写真にするみたい」と言うところ。

通常、○○は××みたい、と言うのは、○○を理解してもらうために、誰でもわかっている(知っている)××を持ち出す。××がどういう物かは共通認識されてると言う前提があるんじゃない?

「失くした写真にする」をもって「短いキスをあげる」がどういうもの?こと?意味?だったかを知らしめる筈だ。「失くした写真にするような短いキス」ってことだ。

では「失くした写真にする」とは何か。失くした写真と聞くと誰の心にも浮かぶ共通の認識があるだろうか?

ある場面を写真に撮る。おおかたの写真の目的は、後日に見返すことを前提にしていて、写真を見ることで「思い出す」「忘れかけた記憶を修復する」ってことだろう。だから「失くした写真」とは、失くさない(忘れない)ためのツールとして、撮っておいた写真が失くなることになるから、記憶を失わないための、変質させないための安心の準備自体を紛失したこととなる。

と、ここまで書いてきて、私はとんでもない間違いをしてるのかな?と思い始めた。

ここまでの私の考察の前提は、
「短いキス」は「失くした写真にする」、ここで言う「する」は「そう決める」とか「そう定義する」だとして考察してきた。すなわち「この短いキスが失くした写真のようになる」ってことだと。

でも、もっと単純に、「短いキス」のそのキスの行為が、失くした写真に(キスを)するようだってことか。ここにいるリアルタイムのこの現実のこの男にキスをあげてるのではなく、(行為としては)リアルタイムのこの男にキスをしていたとしても、気持ちでは今はもう手元に失くなった写真そのものにキスをしてる、ってことかな?こっちの方がストレートにそのままで、わかりやすい。しかし失くした写真は失くしてるからここにない、ここにないものにキスをするとはどういうことなのか?

「短いキスをあげる、それは、失くした写真にするみたい」は
1.男への短いキスは(記憶のなかに残り)、やがて失くした写真のようなものになっていくだろう
と、言いたいのか
それとも
2.短いキスを失くした写真にするように男にする
ってこと?

今ここにいる男にキスをしてるものの、女の気持ちとしては、記憶の向こうにあるむかしの男にキスをしてるってことかな。

この文章は収拾付かない感じ。どうどう巡りな感じ。

女が短いキスを男にする。そのとき女は、このキスは男にとって失くした写真のような役目をすることになるだろう、と言いたいのか。

失くした写真は安心のための準備を失うことだと書いた。言い換えるとより絶望に近いような。だけど、実際には写真を失くしたことで、むしろそこに写っていた写真(画像)は記憶に残るってこともあるだろうな。

はてさて、わからないね。

今日は第三日曜、大磯市の日。天気もいいし、たまにはチャリでも乗って行ってみようと、たぶん最後に乗ってから三ヶ月くらい、久々にチャリを漕いだ。行きはよいよい帰りは怖い。帰りは太股がパンパンになった感じ。

アクセサリーや陶器や服や鞄、その他の小物の店を見ていく。見ているうちに、なんか買ってってあげよう、と思う。誰かに。