いつかの夏 この冬に


部屋のなかのいろんな場所に写真がある。基本はベッドの下に置いてあるプラスチックの衣装ケースのような場所に入れてあるのだが、そこに90%の写真がちゃんとしまってあったとしても、残り10%はあちこちに分散している。本棚が溢れかえってその前の床に、使っていないノートや未読の本がぐちゃぐちゃと積まれている。その上にセーターやジーンズが脱ぎ捨てられたり。そういう付近を整理していたら、十年以上前だろう、6×6ブローニーフイルム、ミノルタオートコードで、夏の湘南を撮ったプリント(L版の小さなプリント)がまとめて出てきた。フイルムカメラ時代の中版カメラのプリントはなめらかな諧調やエッジで、シルクのようなてのも変だけど、きれいなプリントだなあ。あらためてそう思った。
しかし、いくら滑らかできれいなプリントでも、そのごく一部、1センチにも満たないような範囲をデジカメで接写すると、こうして解像不足が写る。低画質になる。
これはネガの限界が見えてるわけではないですね。エル版プリントに伸ばされてる解像度の限界を拡大して見てる。
 このブログに何回も何回も何年にもわたって同じようなことを書いているが、こういう低画質の写真に、なぜ風を感じたり、なつかしさを感じたり、憧れを感じたりするのだろう。旅に行きたいと思ったりするのだろう。記憶の映像が脳のなかで、こういう低画質で記憶されるってことがあって、それに寄り添うのかな?またもや同じような疑問。
 今日のこの日には旅には出ていなくて、だから、過去のあの日のあのときや、将来のこうであるべきその日に、思いが馳せるのか?そしてそれが今でないぶん記憶や妄想のなかで霞んでいるのか。
 その写真に写った十年以上前(いやたぶん二十年くらい前)の海岸を、マクロレンズでさらに部分拡大撮影をしてみる。何回か前のブログにも書いたけれど、真反対の季節のことに思いを馳せることがあるんです。こうして夏の写真に見入ったり、接写したり。夏!
 一方、下の写真は今朝、自転車で相模湾の河口に行ってみたときの写真です。