九州へ


 羽田から大分へ。窓側の席だったので、ずっと写真を撮っていく。何枚も写真が撮ってあって、この写真の前後にも同じような場面の写真が続いているのだけれど、撮っているときには、さっきのよりこっち、こっちより次の、といった一枚一枚のなかの取捨選択が可能な優劣までは当然見極められないで、帰宅後に、これと同様の場面の写真が例えば五枚あったら、それを矯めつ眇めつしながらモニターにこれとこれじゃあどっちかな?あれとこれじゃあどっちかな?と比較検討して最後にここにアップするのを選んでいる。ってことは撮っているときにはその詳細な選択ができないってことだから、だから一枚こっきりではなくて何枚も「数を撮れ」ってことになるわけだけれど、でもこの事後の選択をしないってことを決めると、撮影のその場面場面でもっと詳細な取捨選択が撮影行為と同時に可能になるのか?あるいはフイルム時代にはそういう能力がいまよりちゃんと確保されていて五枚も六枚も撮らなくてもこの一枚だけを撮っていたのか。いや、この一枚よりももっとよい一瞬をちゃんと撮っていたのか?
 不思議なのは、撮っているときにはその五枚六枚のなかの優劣なんか、あるいは優劣というより撮影者の私が鑑賞者に回ったときの嗜好ってことなのだけれど、撮っているときにはどれがその嗜好に合っていたかなんかわからないのだが、鑑賞に回ったとたんいその嗜好への合致度合いには五枚六枚のなかで大いなるばらつきがあって、どうみてもこれが一番だろというのが簡単に選択できた・・・というのがこの離陸待ち飛行機と着陸してくる小さな飛行機 〜たぶん小さく右の方に写っている主被写体とは程通り着陸してくる飛行機なのだが、これがあることが私の気を引く〜 のときの選択の結果なのだった。しかしもちろんいつだってそうではなくて、一方では五枚程度どころか十枚もそれ以上も撮ってあって、だけれどもどの一枚を選んでも同じことでそんなに枚数を撮る意味などどこにもない、という場合もあるのだ。
 この上の写真に戻ってではほかの四〜五枚とこの一枚のどこに差があるのかを解説せよと言われてもわからない。感覚的なことなのだ。これを読んでいるひとはほかの四〜五枚の提示すらされてないのだからますますわからない。
 だけど画面左の滑走路に描かれたラインのカーヴの位置とか、飛行機の黄緑色が全体の半逆光の明るさに合っているとか、そういう結局は構図の教科書のようなことが、たまたま合致している、教科書的法則にたまたま合致している、ってことに過ぎないのだとすると、撮影のときの自由気ままさに反して鑑賞者(=選択者)になった私の尺度やいかにも既存であってつまらない選択をしているのかもしれない。
 その選択のつまらなさを正してくれていたのが須田一政ワークショップに通っていたころの最大のメリットだったのかもしれない。とすると段々とその効能も薄れてきて既存に埋没しているのではないか?という危惧を覚えたりすることがあります。
 下の写真は富士山の裾野あたりを飛行機から見下ろしたところ。