横浜は桜木町から野毛の街を抜けて、川に沿って湾曲して建った小さな飲み屋さんがたくさん入っているビルの向こうの橋を渡り、そのまま伊勢佐木町の方へ歩いていった。そのあたりは人通りが少なく、ちょっと怖い感じがしないでもない。この一匹だけ泳いでいる魚はなんだろう?食べるのか鑑賞魚かわからない。いや、そんなことはいちいち考えずに、魚だ!とだけ思う間もなくシャッターだけ、歩きも止めずにノーファインダーで押して、速足で通り過ぎたのだろう。だからそんな写真を撮ったことはSDカードから写真をパソコンに読み込んで、改めて撮った写真を見たときにはじめて思い出す。
 なんでそんな街や道筋をわざわざ歩くのだろう?結局は、なにかに取り残されたような「残滓」のような「雰囲気」を「横切りたい」という、傍観者の視点なのだろうな。それはある程度懐かしさに根差しているのかしら。
 先日、なにかの文章を読んでいたら・・・そうだAO氏が書いた清野賀子の写真集評だった気がする・・・違ってたらごめんなさい・・・特に男性は懐かしさという感情に囚われて写真を撮っていることが多いが、清野賀子はそれをよしとせずそこの対局にあるような写真だ、と書いてあったのは。すなわち、この写真集評は、懐かしさに囚われる視点に対して否定的なスタンスに立っていたと思う。懐かしさから世の中を見るのは、即ち、センチに囚われて、被写体に真正面から向き合ってない、対戦していない、といったようなことなのかな。
 写真にとる行為の目的が「留めたい」「残したい」「記録しておきたい」ということだったとすると、多くはそこに、後日に感じる「懐かしさ」を担保しようとしたり、いまここにある「懐かしさ」に囚われて撮るものだろう。それを否定することはたしかに大変な立ち位置かもしれない。
 なんてことは、ここにこれを書いていた思っていることで、撮っているときにはいちいち考えない。撮っているときに、自動的にそういうおセンチを排除できるってことは、そのための覚悟はいつどうやってできるのか?なんだか撮っていないときの人としてのありようからして、そう撮るためには厳しさを求められているのかしら。自分がそうありたいとは思わないが、だってどっぷりおセンチだし懐かしさは大事だと思うしかないおじいさんだもの、でも、そう思いたい心持ちは尊重したいな。
 写真集を持っているわけではないけれど、ときどき気になる写真家ですね。荒漠に向き合っているような。

The sign of life

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