横浜美術館


 朝7時過ぎに自家用車を運転して平塚は田村にある、朝早くからやっているスタバへ行き、ハムとチーズの挟まったバゲットを食べ、ホットコーヒーを飲みながら、しばらく読書をする。恩田陸のEPITAPH東京を読了。東京のいろいろな場所を取り上げたエッセイ風な文章と、作中作として主人公の「筆者」が本書タイトルの脚本を書こうとしているところが交錯するなかに、物語の案内人のような吸血鬼がいるのだが、この吸血鬼は、時代をずっと見てきた証人のような役割。なんとなく読み進めて、夢中になるわけでもないが、固有の雰囲気に包まれる感じはする。
 なかに、たぶん山口 果林著と思われる安部公房のことを書いた本、数年前に安部が撮った著者のヌード写真が掲載されているとかでちょっと噂になっていた本のことを取り上げたと思われるエッセイ風の文章があって、主人公の恩田陸本人と思われる筆者は、その本を何度も書店で手に取り買おうかどうか迷っていたときの、その本の表紙の記憶が「モノクロ写真」でデザインされたものだと記憶している。しかしそのあとにその本を見たら表紙がカラーになっていたので、なにかの理由で表紙を差し替えた(ビートルズホワイトアルバムのように)と思っていた。ところがその出版社の方に尋ねたら最初からその本の表紙はカラーだったと言う。いったいどうしてモノクロの記憶が構成されたものか?といったことが書いてあった。
 それで思い出したのが、私自身の小学生低学年のころのことで、当時家のテレビはまだモノクロテレビしかなかったのに、ある日の午後、留守番をしている一人の時間にテレビで「白鯨」の映画(?)を放送しているのを一人で見たことがあった、そのときのこと。冷静に状況を考えると、白鯨はモノクロでしか見ていないのに、あとで自分の記憶をたどるといつもその場面には青い空や海、白い船、があって、カラーとして場面を覚えているのだった。しかも最初のころはその矛盾に気が付かず、当たり前のようにそうだった、カラーだった、と思って何の不思議もない感じだった。しばらくして、カラーがモノクロテレビに映るわけがないと気が付いて、むしろ愕然としたのだった。こんなことは、この恩田陸の文章に出会わなければ一生思い出さなかったのではなかったか。
 珈琲トールを飲みおわわって、読了して、帰宅。街を見ていると、さつきの花が満開になっている。

 午後、横浜美術館ロダンの「接吻」を目玉としたヌード展を観に行く。ボナールが奥さんの入浴している場面を描いた絵が二枚ほど、すごく気になる。作品ではなく解説を読んで気になるというのが正しい鑑賞なのかどうか判らないが、解説によると、モデルを置いた目の前の光景を描くのではなく、いちどその場面を覚えてから、後日に記憶をたよりに描くのだという。その記憶の曖昧さや不確かさを想いが埋め合わせて作品が出来上がるのかな。それってどういう影響を与えているのだろう。より作者の作りたい絵画に近づけるというようなことなのだろうか。
 フイルムカメラが、写真が出来上がってくるまでの時間差があることで写真が良くなるって須田さん(須田一政氏)がむかし言っていた。笑いながら、もうそのフイルムは感光していてこれから変わるものでもないけれど、でも、そのあいだに変わるんですよ、といった禅問答的なことを言っていた。そんなことを思い出した。
 下の写真はメタセコイヤの新緑です。いい季節。