少し前


 昨日のブログに、ほんのひと月くらいの盛夏の頃と、この晩夏の頃と、仮に同じ快晴で同じ濃さの影が同じ場所に出来ていても、そこにはきっとたくさんの違いが視覚的にもあるに決まっていて、しかしほんのひと月前のことなのに、ではどこが違うか指摘しなさい、と言われると、どっちかというと知識をもとに、葉の色とか雲の高さとかが浮かぶだけで、もっと直接的な視覚の記憶としては、ひと月まえの視覚記憶が曖昧であるが故に、その差を指摘できない。ということを書いたが、これって誰でもそうなのか?もしかしたら視覚の記憶が「どれくらいの精度で可能なのか」という問題は、けっこう人それぞれの差、ばらつきがあるのかもしれない。たくさん飲める人と全然飲めない人がいるように、例えばひと月まえのどこかの光景をくっきりと思い出すことが出来る人と、まったく思い出せない人がいるのかもしれない。画家の山下清はかなり詳細に光景を覚えていたとどこかで聞いたことがある。
 それから、これも全くの不明瞭な推測なのだが、もしかしたらこの視覚記憶をすることが下手な人が、写真趣味に走ることが多い、ということはないのか?後日に思い出すための術としての写真は、その術として相性がすごくいい。

 ということとは多分ぜんぜん関係ないとは思うが、撮った写真をその日に見たときのがっかりする感じと、撮った写真を後日、例えばひと月後に見直したときに、意外にいいじゃんと感じることが、それこそ「いつもそうなる」のは何故なのか?街角スナップでそれは起きる。風景や祭りや、どこをどう撮りたいというか、もう撮るときにちゃんとそこを撮ると画面に意識集中しているときの写真は、撮ったときと見直したときの気持ちの差は少なくて、きれいだなぁよしここをこう撮ろう、と思った写真は、きれいにその通りに写ってくれていることが多いんじゃないか。計算通りだけど、でもここがちょっとね、といった程度の差。一方、身体反応的にノーファインダーも多用しつつあちらこちらを次々と撮っていると、その「差」が大きくて、しかもだいたいが「がっかり」なのだ。その「がっかり」が、時間とともに修復?回復?されていって、ひと月経ってみると、いつのまにか「悪くないじゃん」が増えてくる。しかもそれはひと月ではなくて一年三年五年と経っていると、その「悪くないじゃん」頻度がどどーんって上がって行って、すると自分はむかしの方がずっと気に入る写真を撮ることが出来たんだと思ったりするのだった。というような気持ちは、これは誰でもそうなのか?そんなことはないのか?
 むかし須田一政さんが、フイルムで撮ると、一週間とかひと月とか現像してプリントして写真を見るまでに「それなりの」時間が流れていて、そのあいだの妄想が写真をよくするんですよ、と言うようなことをおっしゃっていたが、これは選択眼というか鑑賞眼が冷静沈着になるってことかもしれません。
 というわけでこれは8月の19日だかに撮った写真。傾いていたのを補正したが、補正しなかった方が良かった説も、自分のなかではあります。