昭和50年代後半のBRUTUSだかポパイだかの記事を読んでいたとき、当時ですよ、夕日評論家、いや、夕焼け評論家かな?そんな肩書きのライターが書いた記事を読んだことがあった。記事の中身は覚えてないが。たぶんどこぞの夕焼けはまれに見る美しさ!なんて情報を、いまで言えば雲海の穴場はここだ!といった情報みたいに、記事にしていたのかもしれない。ネット時代になると必要がなくなった職業かもしれない。
当時は、夕焼け評論家とか気取っていて気に食わないな、と言うのが、私の基本的な、その肩書きを見たときの感想だったが、まぁ、いま思えばそんなの複数の肩書きを使い分けながらなんとか原稿数を確保したい、しがないライターの苦肉の策としてうまれた肩書きなのかもしれないと思う。どうなんだろう。
しかし最近はプロの旅人って職業もあって、カリスマトラベラーのなんとかさんは、旅を楽しむあれやこれやのプロで、楽しく思い出に残る旅をしたい人たち、とくに女子?からは、先生と言う敬称で呼ばれてるらしい。らしい、だから、本当かどうかは知りませんが。
あ、でも、昔だって兼高かおるだっけ?海外旅行の見本を示すプロのトラベラーがいたよね、そう思うとむかしからある職業なのかね?
それを聞いたときは、すなわちプロのトラベラーが崇められてるって話を聞いたときは、アホらしいと思いましたね。旅行と旅の違い云々の議論が昔々ありましたが、それはさておき、ここではどっちも同じとして、旅行に典型とお手本もしくは見本を求めてどうする!と。ところがよくよく考えると、旅行雑誌やガイド本、ネットで事前に調べる情報、みなこれ、結局はプロのトラベラーに頼ってる、それが本や媒体から、生身の伝道師に変わっただけなのだな。
アラーキーが奥さんを亡くしたあとに空ばかり見ていた時期の写真集、空景、は好きな写真集です。が!それはアラーキーのそれまでの写真集や作品や、家族の情報や、書かれたエッセイや、そんなのの流れの中から現れた空景であるからイイのだろう。と、書くと、そんなの何の情報もなく一枚の写真から一対一で得られる写真の力ではないから、ズルいのだ、と思ってしまうって人がいるだろう、私自身もそう言う思いもある。いや、空景の写真集におさめられた空の写真はアラーキーしか撮ることのできない、彼の視線や思いが透けて見える、個を映した写真なのだ!と言うことは可能だが、言えても、本当に私にそんな写真を見る目があるわけがないのが事実。
で、空を撮るの、なんかさー、ベタでガーリィーな感じで、今さら感満載で、すなわちそれ、ダサい気がする。
にもかかわらず、今日選んだのは、空の、雲の、写真です。空や雲は、そこで生で見ている方がよりよくて、写真は視覚の代行に過ぎず、実際の空や雲を越えられない、そう言う、写真が、視覚の代行、あるいはミラーorウインドウのウインドウ要素ばかりの、そんな写真が太刀打ち出来ないのが空や雲と言う被写体なのではないか?
いや、ほとんどの、もしかしたら全部の、自然光景に対して写真は無力で、ただそのときその場に行けないと言う制約を突破する一点だけで、風景写真はその価値が決まってるのかもしれない。
消去法で消えたほかの上手く撮れなかった空や雲ではないところを撮った写真の屍たちがあって、消去法に残ったと言う理由で、この空の写真を、そう、臆面もなく!載せました。これしかなかったから。
空と雲評論家もいるのだろうか?