駒井哲郎 須田一政


 横浜美術館に駒井哲郎の展示を観に行き、すっかり魅了される。とくに最後の色が溢れるばかりにキャンバスにはじけている作品群の美しさ!檻の中のシロクマのように、何度も何度も会場を巡っては戻り、戻っては進み、を繰り返してしまう。
 今度は中華街近くのギャラリー・パストレイズで須田一政写真展「現代東京図絵1979-1982」を見る。モノクロームの手練れた作品。向こうにある単車のホイールの日が当たった白と黒が作る光の模様が、手前の犬と重なって、ちょうど牙のように見える写真に驚かされる。ストロボ一発で浮かび上がった注文を取りに来たと思われる料亭だか居酒屋だかの和服のおばさんは、ストロボの光が暴き出したかのように、妖怪めいた怖く怪しい笑顔を纏う。

 中華街のあたりを歩いていると、新しく出来たばかりのコーヒースタンド(上の写真)や、私はまったくわからないがどうやらミニチュアゲームっていうゲームの分野があって、そのなかで世界的に人気があるらしいウォーハンマーのショップ(下の写真)を偶然見つけた。
 本日時点のWikipediaによると、ミニチュアゲームというのは
『ミニチュアゲームでは小形の立体模型を駒として使用し、テーブルや床の上、本格的なものでは戦場を再現したディオラマを使用する。地形を描いたボードと平面の駒を使用する通常のウォーシミュレーションゲームとは通常この点で区別され、この意味からテーブルトップ・ゲーム(tabletop game)とも呼ばれる。駒の移動などの際には主に紙製や布製のテープメジャーで距離を計測する。
駒(ミニチュア、フィギュアと呼ばれる)は一定の縮尺(スケール)で統一されたものが使用される。材質はメタル、プラスチック、レジンなどで、紙製の駒(立像または平面)を使うこともできる。スケールは通常の大人の身長が何mmに縮小されるかで表現され、10mm、25mm、28mmといったものがある。25mmスケールは1/72にあたり、プラ製の製品も多数販売されている。
商品としての形態はさまざまで、
ルールだけが独立して販売(または無償配布)され、駒(フィギュア)はメーカーを問わず使用できるもの。プレイヤーは駒(金属製、プラスチック製が主流)を必要数購入して、各々が組立、塗装を行いゲームで使用する。
ルールを販売する企業または特定の提携メーカーのフィギュアだけが駒として使用できるもの。
塗装済みの駒とルールがセットになったもの。
さらに塗装済みの駒がボックスにランダムに封入されているもの(コレクタブル)。
などがある。
場合によってはあるルールのための駒を、別のルールの駒として流用することもできる。特にヒストリカル(歴史もの)では駒すなわち実物の兵士・兵器の模型であるため、スケールが近ければ当然に流用できる。
いくつかのミニチュアゲームは世界中で広く展開しており、特に「ゲームズワークショップ」の「ウォーハンマー:ファンタジーバトル」「ウォーハンマー40,000」、そして「指輪物語」をベースにしたミニチュアゲームが著名である。アメリカやイギリス、日本の大都市には専門店も存在する。』
と解説されているが、これを読んでも、なんのことやらちんぷんかんぷんで全くわからない。将棋みたいなものなのかな?将棋のルールにあたるものが独立して販売されていて、将棋の駒にあたるのが小型の立体模型になっていて、将棋盤にあたるのが戦場を再現したジオラマ。そう言うこと?
 ゲームには全く興味がわかない。人が作ったルールに踊らされて一喜一憂するのはどうなの?とか思うが、将棋にせよチェスにせよ、それらにも全く興味がないものの、こういう思いは持たないから、同時代的にどんどん現れていて、その発案者がそれにより今現在利益を得ているゲームクリエーターに踊らされているという反感のようなことを感じているのかな。たぶんいずれ狭量であまのじゃくな思い込みなのだと思いますが。というより興味がない理由をあとから適当に理屈をこねているだけなのか。
 とか自分がゲーム分野にまったく興味がない、とか言いながらスポーツも広くはゲームでありルールにのっとっていて、サッカーは夢中で見ているからこれだってそうではないと言えるか・・・、まぁいいや、興味がないけれども、こうしてもはや秋分を通り過ぎて暗くなるのが日増しに早くなり、「十月は黄昏の国」であるからか、こういう店に明かりがともって、そこに人が一人にせよ複数にせよ、その明かりの下にいる光景は、他の季節よりも一層人恋しく見える。
 居酒屋の常連さんたちが暮れ時になると集まるのとかも同じ人恋しさの後押しがあって、秋にはきっと混むのではないのだろうか?いや、そんなことなくていつだってなんやかや混むのか。。。