雨の銀座


 今年最後かな?写真展巡り。品川のキヤノンギャラリーSで鈴木理策「知覚の観光板」、東銀座AKIO NAGASAWAで森山大道「RADIATION (color)」、
東京都写真美術館ではマイケル・ケンナ「MICHAEL KENNA A 45 Year Odyssey 1973-2018」

 知覚の観光板の鈴木さんの作家メッセージ
https://cweb.canon.jp/gallery/archive/suzukirisa-perception/index.html
には、セザンヌの絵画について『「目に見える自然」と「感じ取れる自然」が渾然一体となるように描いたセザンヌの絵画は、「何を描いたか」ではなく「モチーフから感じ取ったもの」そのものを私たちに見せてくれます』と定義したうえで、『写真の場合、カメラは表現意図を持たず、ただ純粋に対象を知覚します。カメラの機械的な視覚は、人間の見え方とは大きく異なります。私たちは行動に必要な情報だけを取捨選択してものを見ているからです。カメラの純粋知覚は私たちが見捨てた世界の細部をも写し出してしまう。』とカメラを人の見え方とは違うと続けます。ここまではすごくよく判る。さらに鈴木さんは『その(カメラの)基本的な性質にあらがうように、多くの写真家は構図やフォーカシング、シャッタータイミングの選択を駆使して、画面の中に自らの刻印を残そうとしています』というところもよく理解できる。最後に『近代の画家たちがモチーフに選んだ土地を撮影しました。彼らが向き合った風景を訪れると、その創意を直に感じられるようでした。この旅の中で、レンズの純粋さを信頼し、写真の本性を手に入れられたらと、改めて強く感じました。』と締めているところが、私にはなかなか難しいのでした。写真家がカメラの特性にあらがうように、作画意図を表現すべく「選択」的に写真を「作る」ということ(=創意)と、画家の創意とは、同じ創意と言っているのかな?そうだとして「レンズ(カメラ)の純粋さを信頼する」ということは「表現意図を持たずに対象を知覚し記録すること」ものだと言うことは信じて、言い換えると根拠にして、ということだろうな、と思う。その本性を手に入れるべく撮影したということは、言い換えると、創意以前のその場所そのものをレンズ(カメラ)の力を借りて知覚して見せた、という結果の作品を展示したのでしょうか?以上の解説と、実際の作品が、どうしても今のところ私の中で繋がらない、腑に落ちない。なぜなら展示された写真は狭い深度で注視すべきところへ鑑賞者を導いている感じを受けるし、無作為を意図したわりには雲の形にせよ葉のゆらぎにせよ、とてもきれいでフォトジェニックに見えるからです。以前、鈴木さんご自身が(少なくともいい写真と言うものの条件の一つには)身体性が大事だ、とおっしゃっていて、その身体性が満ちている魅力的な写真だった。創意以前の風景がこれほど魅力的なのか?画家が選んだ場所だから無作為でもこれだけ魅力的ですよ、と言いたかったのか。セザンヌの言う「目に見える自然」が無作為だとすると、「感じ取れる自然」は画家または写真家の「意図」があることを感じさせるし、それが混然一体と言うのは目に見えたままでありながら、その実、取捨選択をした?でも、セザンヌはそういう感じではなく、目に見える自然の全体が圧倒的なその場であり、そこからかろうじて感じ取れるところで挑んだ、といった感じかもしれない。鈴木さんはそういうセザンヌの行為を写真で追随したかったのか、それ以前の無作為を試みたのか?少なくとも展示された写真が、フォロワーがたくさんいる風景写真講座的に良い写真とは違う次元にあって、鈴木さんの写真の前に立つと、特別な場所や特別な時刻に決定的瞬間として現れる、それゆえにとても「特殊な」風景の瞬間ではなくて、我々が都会に住みながら河原に降りたらたちまに感じる自然というものの、その「ありふれた素晴らしさ」を思うことが出来る。特殊ではないゆえにありふれた中にある自然の力を、風や匂いや、視覚だけでない感覚を思い出させる力がある写真だった。すなわち、良かったけれどメッセージが難しくていまだよく理解できないのです。
 品川から東銀座に回る途中に銀座八丁目の中銀カプセルタワーを初めて見に行ってみる。もちろん外観は特徴的なのだが、それでも、どこか地味で小さなビルだった。