目に見えるもの、見えないもの

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写真家の竹沢うるまさんがCP+某社のステージで話していたこと。

・目に見えるものを撮りながら、その先にある目に見えないものを撮る。

・写真を仕事にしているとあまのじゃくになってきて、そのままを撮ろうとは思わなくなってくる。

上記、面白いと思ったので、聞きながらスマホのメモ機能を使って慌ててメモしました。

 絵画が真っ白なキャンパスの上に形や線や色を重ねていく「足し算」の作業だとすると、三次元に広がっている世界、刻刻変わっていく世界、のどこか一つの箇所に今カメラを持って佇んで、そこから自分の目と頭と、いや、からだ全部で、記憶や嗜好も動員して、ここと思う方向にレンズを向けて、切り取ってできる写真は、世界からの「引き算」の作業なのだろうか。そうして引き取った世界のある一瞬のある一部の「真」のなかに見えないものを写す、そのままじゃないものを写す、ということを試みるのは「引き算後の足し算」いや、「引き算を基本としている媒体を使った足し算の試み」ということかもしれないな。なるほど「あまのじゃく」なのか。

 こういう話を聞いたことをきっかけにして、その先もぐちゃぐちゃ考えるわけですが・・・

 例えばニューカラーの作品を撮り始めたときにスティーヴン・シェアはなにを考えていたのかな。目に見えるものを高精細に撮るから、あと、その先になにを見るかはすべて鑑賞者に委ねる。・・・とか自覚的だったのかな?