さまよう視線

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 花の頃には大勢の見物客が木々のあいだをそぞろ歩く藤の林。誰もいない。

 ありふれた日、例えば、会社の休み時間の食堂で、仕事仲間数人とあれこれどうでもいいことをしゃべっているその会話をそのまま文章に書き起こして、これが日常です、と提示しても、一体なにを話しているのか?話題の飛び方やそれぞれが会話に参加しつつも勝手な妄想をして急に話題が変わったり、複数の話題が平行で進んだり、例えば四人が二人と二人に分裂して二つの話題の会話が続きそれが一つになったりで、読者には意味不明。とてもとてもそののんびりとした休み時間の「感じ」「雰囲気」など伝わらないのだと思う。なので、もしそういう場の雰囲気を出来レース的に「そういうときはこうあるべき場面」を呼び覚まそうとすると、実際にはそんな風に会話は進んでいないような会話を書くことでリアルに呼び覚ますことになる。しかしあまりに会話で話の筋道を示そうとすると、実際にはこんな風に説明的に話してないよね、というその仕掛けに読者は気が付く。すると作為が見えてしまって嫌になったりする。そこから、実際の会話に近いぎりぎりで、でも読者が読み進められる範囲の端っこ、そのところに腐心し執着して結果を小説に示したいという「野望」を抱く作家もいるだろう。そういうの読むの好きです。

 視線もそうなのではないか?誰もいない藤の林でぼんやりと立って、気持ちのより初夏の風を感じて、遠くから聞こえる街の音と葉擦れの音が耳をすませるわけではなくても聞こえてくる「歓迎すべきノイズ」としてとらえられていて、そういう中で過去や今や未来を漠然と思って ~決して具体的に思うではなく~ いるときにも、視線は実際にはきょろきょろ移動している気もするが、でもこんな気持ちを現そうとすると「漠然と目の前をなんとなく見ている」とか「そこにある木の枝の具体的ななにかではなくその木の枝と自分のあいだの空間と、その空間を通る風を見ている」なんて書いた方が、ぼんやりと、あるいはのんびりとした感じは伝わるかもしれないけれど、実際には視線はさまよいつつ、つぎつぎとどこかにフォーカスしているのではないか?

 とかなんとかをこの場で思ったわけではないが、なんとなく絞りを開放にして深度を浅くしたなかで、どこにピントを合わせるかをなるべく無意識的に、意図や目的を排除して、撮ることでこの「さまよう視線」を再現できないか?って・・・出来るわけないじゃん、動画ならまだしも静止画で・・・とは思うが、無謀にも?そんな風に撮った写真が上です。

 風が強くて相模湾にはたくさんお白波が立っている。こんどはちゃんと構図やらを意識して撮っているのが下です。

 いまの自分の気持ちとしては上の方を推したい(笑)

 

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