まだなまえがないもの

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 品川のキヤノンギャラリーSに「川島小鳥 写真展 詩 谷川俊太郎・まだなまえがないものがすき」を観に行く。谷川俊太郎の詩を壁にランダムに飾られた大小の写真プリントのなかに、写真プリントと同じようなサイズの白い用紙(もしかして質感の差が出ないように同じ写真用プリント用紙?)に印刷された詩が「写真に混ざって」置かれている。詩は「愛」につぃて書かれたものだ。具体的な恋人に向けてだったり、このとらえどころのないふわふわした世界に対してだったり。

 写真展のタイトルは「どうでもいいもの」と言う詩の一節からとっているようだ。フライヤーにその「バウムクーヘン」という詩が載っている。最後のところ、

 

がっこうはもうきまっていることをおしえる

わたしはまだきまっていないことがすき

まだなまえがないものがすき

どきどきしたいから

 

 名前のないものは定まっていないから期待と不安が交錯する。そのストレスを力として吸収できるか、不安にさいなまれて避けようとするのか、行ったり来たりを繰り返す。谷川俊太郎はそれを「すき」と定義していて、川島小鳥はありふれた世界が気持ちの持ちようによってきらきらと見えることを教えている。優しいなかに力が漲っているような、勇気がもらえるような、写真展だった。

 名前の付いているものは「見える化」しているからそれになんらかの善意や悪意の表出の目的や目標に据えることができるし継続的に変化を見極めたり、時間のなかで誰かに託すことのできる可能性も高いだろう。そのぶん硬直がはじまっている。一方名前のないことは泡のようで、消えやすく、弱い。しかしこれから生まれていくものとしての将来への期待は託しやすい。あるいは自由な解釈の拠り所として唯一無二になれる。なんてことをときどき考えていたので、それが正しいかどうか、いかにもまだ浅はかな感じもするが、またそういうことを繰り返し考えるきっかけになりそうだった。

 

 

 新宿御苑前のPLACE Mに「第31回写真の会賞展」を観に行く。須田一政の「日常の断片」が特別賞、写真の会賞は野村浩「カメラになった人々」。

 野村浩は「カメラになった人々」という三駒の漫画で写真やカメラに関するいろいろな断片の風景や考察を現している(この写真の会賞は写真家や写真集に与えられるものではなく写真的な行為をしている人がすべて対象らしい)。品川で見た上記の展示が写真家と詩人のいわゆる「コラボ」=相乗効果だったとすると、この展示は須田さんの日常の断片というまさに須田ワールド全開の6×6の街スナップででも異界がそこここに現れていて、かつそれをカラーが彩っていて「鮮やか」で「不気味」なすごさだ。どこに掛けようが、その一枚を置いたその場でなにか写真からなにかが「出てくる」。野村さんの写真や三コマ漫画は額装されて展示されている須田さんの写真の周りをぶんぶんと飛び回っている蜂のようだった。あるいはティンカーベル?これは「コラボ」ではなくてもっと親密な関係。ちょっと失礼かもしれないが「たいこもち」のような野村さんに思えた。その太鼓持ち的な表現ができることがうらやましい。

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通り雨が抜けて夏の陽がさす。

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夕方7時前、茅ヶ崎駅に戻って来て、そのまま自宅に戻るのがなんだかもったいない感じがしている。台風接近でいつ雨になるのか判らないのに湿った強い南風が海沿いの町を吹き抜けると、それに誘われるようにざわざわと気分も波立つ。海まで歩いてみる。高波がつぎつぎと入ってくる相模湾。人影はほとんどない。基地勤めの方?なんて短絡するのも失礼かな、カップルがなにやら話している。彼らの青春、この日本の湘南の台風接近で強風の吹く夏の夕暮れに、彼らはなにを話したのか。すぐに忘れてしまうことか、ずっと残ることか。

 以前、テレビのインタビューでブルース・スプリングスティーンが、ありふれた日の通学路で見た街路樹の風景がいつまでも記憶に残っている、そういうことが大事なのだ、というようなことを言っていたかな?もう二十年かそれ以上も前に見た番組のことなのではっきり覚えていないな。このブログをどんどんさかのぼるか、このブログに引き継ぐまえの「ノボリゾウ日記」にはもっと今ほど記憶が曖昧になるまえの記憶に基づいてスプリングスティーンの言ったことが書いてあるかもしれない。あるいは、こんなブログに移行するまえの手書きでノートに綴っていた日記にはその日のことが書いてあるかもしれない。二人を見ていてスプリングスティーンの言っていたことの「漠然」が思い出された。

 1983年頃に、当時250ccのバイクに乗っていて、伊豆にツーリングに行った帰りに大磯の海の見える駐車場(いまはないですね)に停めたら、ハーレーに乗って来た厚木たかな、米兵に話しかけられたことがあった。もうすぐ日本を去るのだけれど、おまえ、このオレのバイクを引き取らないか?と言われた。それは900ccくらいのバイク中型二輪免許(400cc以下)の限定免許しか持っていない私はそんな大型バイクには乗れない。なので、かたことで免許に制約があって引き取れないと答えたら、そうか、と納得していた。ほかに二言三言話したかもしれないがこれももう覚えていない。

 基地からバイクで海に来て、しばらく海を見て基地に帰る、そういう米兵はけっこういるのかもしれない。海を見てなにかに思いを馳せるという行為はストレスや悩みの解決にはやはり良いことなのだろうか。(繰り返しますが写真に撮った二人がそうとは限りません)

 

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 海からの帰り道に創作そば「なぁる」という店の前を通ったので入ってみる。日本蕎麦を使ってパスタのように仕上げた創作の品もあった。これは小海老天ぷら×とろろ×干し青のり蕎麦(冷)です。

 これを食べる前には、まったくほとんど下戸に近いほど飲めないのに、なので残してしまうこと前提にして山口のお酒「金雀」純米吟醸50と板わさも頼んだ。台風接近で風強し夜。