城田圭介 写真はもとより @ 茅ヶ崎市美術館

f:id:misaki-taku:20191222172427j:plain

日曜日。曇天から雨。寒空。午前、平塚市にある実家に行く用事があり、その行き帰りに平塚市美術館または茅ヶ崎市美術館にでも寄ってこようか、と思い立ちそれぞれの今の展示内容を調べてみたら、茅ヶ崎市美術館で開催中の城田圭介~写真はもとより~という展覧会に興味をそそられたので、実家からの帰り道に寄ってみた。撮影自由だった。例えば展示された作品のひとつが上、もっと近づいて「部分」に注目すると下のような作品だった。とても面白くて、このシリーズもほかのシリーズも、このワクワクした感じはトーマス・ルフ展を見たときに感じた気持ちと似ているかもしれないと思った。この作品では、たぶん、想像するに、と言うことだけれど、どこかの観光地に大勢の人が集まっている、その人々が広く散らばった写真をまず撮って、それをベースに、人物のみをキャンパスに模写している。その模写に当たって、どういう手法をとっているのかは判らないです。プリントをベースになにか写し取るのか、例えばプロジェクターを現代のカメラオブスキュラのように使うのか。下の「部分」を見ると、同じカップルが描かれて(写って)いるから元は複数の写真を使っているのだろう。

これらの人々が集まって、彼らが見ている風景や名所の建物やなにやらが消されている。このことはなにを言いたいのかは判らないが、作品を見ながら私自身は、なにかとてもポップな感じを覚えたのです。

この展示のちらしにはこう説明されている「前略~写真に写り込んだ人物だけを抽出し、油彩で描いた新作を発表するなど、多様な展開を示します。作品はいずれも写真をもとに制作されており、特筆すべきは、写真に写された風景や絵の具で描かれている人物が、現実的な関係性から切り離され「何も」そして「誰も」存在していないかのような一貫した静けさをまとっていることです。現在、我々を取り巻く社会において、瞬く間に大量消費される写真。その膨大な情報の波に抗うがごとく、静かに佇み一心に制作する城田の姿勢が特異性をもって浮かび上がります。~後略」

この解説を読んでも知りたいことは書かれてない。作者がこういった手法をとることで何を言いたいのか、言いたいことなんてないがこうしたかったのか、あるいは、私がポップだなと感じたのは制作側の理屈に合っているのか、お門違いなのか・・・

風景や名所を取り払われて、場所の固有性が消えることで観光という行為に赴いている自分も含めた人々の共通の感情の滑稽さや楽しさややるせなさ、あるいは誰か、観光戦略をつかさどっている見えない力にひれ伏しているかもしれないこと、いやいや、そうではなくて、こういう群衆に属していることの安心感・・・そういったいろいろな感情をあぶりだすための装置として機能しているのではないか。

ある休日にあったあなたの観光を思い出して、懐かしむことの普遍性、かもしれないし。

f:id:misaki-taku:20191222172449j:plain