ヒヤシンス


 恵比寿の町を歩いていたらバケツの中に球根を付けたまま抜かれたヒヤシンスが入れらていた。どこかに移植するのかしら?きれい。

 東京都写真美術館に日本の新進写真家第十五回目かな?を観に行く。ミヤギフトシ作品が見たかった。数年前に東京都現代美術館で見た「他人の時間」展に出ていたこの人の動画作品は、祖父の時代のアメリカ兵と日本人の沖縄での交流が、ラジオから流れるベートーベンの曲を鍵にして秀逸な短編小説のように提示されて、とても面白かった。そのあと、二年くらい前かな、六本木クロッシングだったかしら、そこでもこの人の作品を見た。そのときは大判センサーのボケを生かして東京の町をスナップのようにつないだ動画が流れていて、そこにやはり誰かの物語が語られていくようなのだった。あまりよく覚えてないが、最初の作品同様の、静かで極私的で、その私的な出来事の背景には大きな同時代の痛みがあって、声高に叫ぶ社会的告発をせずとも、出来事の結果からその根源的な理不尽な理由を類推させるような、あるいはそこに別の軸から、生きる個人の変わらない「弱さ」と「強さ」をあぶりだしているようなところが感じられる。
 そのミヤギ作品は、最新のデジタルカメラで真っ暗闇の中でもそれほど長くないシャッター速度で写真が写る(ISO感度を高く設定できノイズも年々改良された結果)ことを利用して撮られた男性ポートレートと、それとセットで、そのポートレートを撮っている、カメラをセットして構図を決めて長い露光を行っている、そのあいだに、モデルとなっている男性がぽつりぽつりと話す、たいていは「昔話」が語られる撮影時記録動画?が両方提示されている。一室目が静止画、二室目が動画。モニターが壁にいくつか並べられてその前に立つとひっそりとした会話が小さな声だがぎりぎり聞き取れる。暗い部屋で撮っている動画だから静止画にはちゃんと写っている男性モデルもせいぜいシルエットか、基本的に闇の中にあってなにも見えない。ただ煙草の火やカメラの液晶モニターの光や、カーテン越しに入ってくる町の薄明かりが暗い中にかろうじて見える。
 子供の頃、液体をぜんぶジュースと言っていた。はじめて海をみたときにそのあまりの量に驚いてジューーーーーースって言ったそうです、なんていう他愛のない打ち明け話、思い出話が、ひそひそと語られる。
 この動画と静止画がセットとなり、モデルがモデルではなく個性のある一人の人として浮き上がる。