皆がやっているだろうこと

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皆がやっていることの一つに、この際、家の中をピカピカにしようじゃないか!ということがあるだろう。私の場合は、自室に、折り畳み可能なローテーブル、と今は言うのかな、すなわちまぁちゃぶ台ですが、それを置いて、昨年暮れまで使っていたけれどファンの冷却効率が落ちて「シャットダウンすべし!」という警告文ポップが出るから、新品買い替えに伴い稼働せず休眠状態になっていたデスクトップPCをその上に置いた。実際はポップが出るだけでちゃんと作動する。あぐらをかいてその前に座り(チープな座椅子に座り)テレワークなるものを一昨日と昨日試みたが、まぁ仕事はちゃんと進みますね。ウェブ会議やメールも併用して。ところがこのあぐら、もちろんときどき足を延ばしてみたりもするけれど、腰に来ます。腰が痛くなる。そこでピカピカにするというより整理をして床面積を広くしたうえで、この際、折り畳みにはなるだろうが食卓くらいの高さのテーブルにその怪しいPCを置いて、座椅子ではなくちゃんと椅子でテレワークをしたい。ところが、整理整頓および床面積増加のためには、リフォームのときに段ボールに入れたままいまだ開けていない荷物をなんとかしなければならない。そのためには、いろいろ捨てて、ものを収納するスペースを増やさなければならない。

というわけで、クリアケースのなかに何千枚、もしかしたら一万枚以上かも、詰め込んである写真プリントを捨てることにしました。須田一政写真塾に通っていたころに毎月毎月選んでもらった写真なのですが・・・。もちろん全部ではないけれど。そこから玉突きで段ボールの中のものを半分捨てて半分しまって・・・という作戦です。

が、この作戦には大きな落とし穴があって、写真をじっくり見返してしまう。そして見返すと今度は捨てられなくなる。目的がなかなか達成されない。それにしても写真の「高画質」って性能を見極めるときや、購買するときに金銭との引き換えする価値としてわかりやすい重要項目。なんだけど、このようにインクジェットプリント後に時間が経って、純正インクまたは純正ペーパーでないせいで、色がにじんだり変色したりしてしまった写真(を接写したものです)が、「いい」と思えるのはどうしてなんだろうね。強引にそのときの現実に近いところに引き戻せる力のある高画質、と、むしろ記憶に寄り添って懐かしさを明白にする劣化した画質、ということなのか。すなわち全然効果が違って、でも両方大事なことなのか。

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