ほとんど聞いていないアルバム

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茅ケ崎の鶴嶺通から小出川沿いの小道を南下して国道一号線まで、左折して、一号線沿いに茅ヶ崎駅方面に歩いて行く。午前8時台。たぶん、一般的には、どこかを写真で撮るという写欲?が沸くような場所ではないですね。そうだ、途中ニトリの店舗の近くに、江戸時代だかもっと前の、相模の渡しの遺構が小さいながら公園になっているからそういう場所は写真に撮る人もいるかもしれないな。川沿いの小道沿いには雑草が花をつけていた。アカツメクサ、ノビル、カタバミタンポポまたはタンポポに似ている黄色いいろんな花。花を撮るのはいいですね。気持ちが優しくなる。花も撮ったけれど、写真の出来は~というか良し悪しで評価して載せる載せないを決めているこの行為自体が、いいのか悪いのか判らないという混沌もあるけれど、まぁそこはさて置いてしまうと~花の写真の出来は良くなかったから載せません。上の写真なんかは、それでも、あっ!撮りたいと思った場所です。トリミングしないと右の方に軽自動車とからあげ屋のロゴと飲み物の自販機が写っている。ここに載せるにあたってトリミングをして、だけどそれらを全部消さずに、車の一部とからあげの店の黒い屋根の端っこをちらっと切らずに残しました。なんで?だろう。自分でもわかりませんが、それがいいと思った。もしかしたら全部残した方がいいのかもしれない。少なくとも、コンデジの背面液晶で詳細な画面構成なんか考えられない。歩行すら止めずに瞬間撮っているし。適当なわけです。だからトリミングしてしまう。撮るときの瞬間の偶然を少し排除している。作意の面積を増やしている。

下の写真は高速道路の橋脚の工事現場。今ある橋脚の根元を掘った土が山になっている。補強して埋め戻すのかな、というのは素人考えですが。これ黄色い三角の旗が気に入りましたが、赤や青や緑が散らばっていて、殺風景な中にあって、色鮮やかだった。それが同じように橋脚の根元に土の山が出来ている場所が続いた中で、ここを撮った理由だろう。写真とは、目の前の光景の中から、長方形(または正方形)の画角に収めるとなんらかの感情を呼び起こす(と思われる)場所というか範囲を切り取るという作意が反映される。けれど、そこに天邪鬼な感じのバランスがあって、写真を撮るべき名所とか、最近は「映え」とか言うのかしら、誰もがイイね!と思う写真を撮るのはダサいと感じるという変な気持ちが少なくとも私にはあるのです、きっと。もっと単純にイイね!の多い写真がいいとは思わないことが多い。だからむしろ大勢ではなく少数の人がイイね!と思ってくれると、その少数の共感者がいることで、大勢の一般的共感と違って、特異的な、まぁ優越のようないやらしい感覚が私に生まれているのかもしれない。なんだか自己批判的になってますかね。いや、でもこんなにフォトジェニック工事現場を撮るなんてなんとダサいことか、と思い、この隣の橋脚の土砂を撮るという美意識というのか、そういう価値観の方だって必ずいるだろう。どんどん少人数になっていくだろうけれど。その少数の美意識の方向に寄りながらも、ある基準で、その基準は狭義の「美」ではないにせよ、広義の「美」としてとらえた、いや「美」の基準と似ているが「美」ではないものの、その方には確固としてあるある「A」の基準に寄り添った写真。それが「美」だろうが「A」だろうが、基準によって選択して撮ることしかできないと言う写真は不自由かもしれない。しかし平仮名が意味のある言葉になる、とか、絵を描くにあたりその発意があるとか、なににおいても発意の基準(発意を具現化しようと決定=創作意欲とか表現の意欲)が起きている。そして、一方でその発意の基準を見えなくすることがカッコよさのようにも思えるし、なるべく作意を排除して偶然に委ねたいといったことを良しとする気分のようなものがある。少なくとも私にはあるようだ。告白すると。

一番下の「食堂だるま」の駐車場の写真は、誰でもちょっと面白いと思うかもしれない。でもそれは「だるま」という字にもよっているだろうな。だから日本語がわからない人がこの写真を見ても、そこから理解できる中身には違いが生まれているだろう。それは私が、その歌詞の意味がまったく分からない外国語で歌われる音楽だって、むしろ意味が一義的に入ってこないがゆえに、たとえばBGMとしても心地よいことと似ているのだろうか?

とか延々と書いていくと止まらないけれど、これ、堂々巡りのうえ、結局この長く続くブログの「いつかの過去に」書いてきたことと同じだろう。

 

午後はあまり聞いていないCDを聞きながら本を読みました。テレビジョンズとかアリエル・ピンク・ハウンテッドだったかな?とか、トレインとか、ええとパブロフ・スタウト?そんなバンドありますか?とにかく分野もなにもないけれど、ここ十五年くらいのあいだに、アイポッドに収めたアルバムらしい。そして収めたけれど、ほとんど聴いてないアルバム。いつなにのきっかけで録音したんだろう。本のほうも、いつどこで買ったのかまるで覚えていない私小説。作家の名前も知らなかった人の本でした。沖山明徳という作家の「日曜日の午後」という短編集。

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