早朝散歩

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本日は自宅でテレワークをする日、7:30に業務開始をすることにして、それまでに早朝散歩に出る。6:20から歩き始める。きれいな日光がさすきれいな朝でした。いつも歩いている、いつもそんな場所で写真を撮ろうとは思わない、そんな場所で写真を撮りたくなる。これはまだ上ったばかりの日光が作る影が風景を変えているに違いないと思う。と書きながら思うのは、そもそもその場所が撮る場所か撮らない場所か固定されているという「ところ」から考えているってことで、これがまず間違っている。撮っているときには風景にある程度感応して撮ることが出来ているのだろう。だけれども、家に帰り、こんな風に写真を選んだり、文章を添えるときになると、その現場で感応している身体がすっかり言葉や既存の選択眼にまとわりつかれるから、こんなヘタレな文章を書いてしまうのかもしれない。写真の選び方ってデジタルカメラ時代になり撮る写真が大量になって以降、それまでと別の次元の行為になっているのではないか。なにを選ぶかで撮った人がどういう人かを七変化出来てしまう気もする。一曲の音楽を作るときに作詞家と作曲家と編曲者と演奏者と歌手と・・・写真を撮る行為が作詞だとすると、写真を選ぶ行為が作曲のような感じになっているかもしれない。

数か月前にアマゾンで注文したスティーヴン・ショアの「アンコモン・プライス」完全版が忘れていたころに届く。でかくて重い写真集。いままでダイジェスト版みたいなのを持っていたが、やはり完全版は見ごたえがある。この写真集を日本人が見るときに思うこと、アメリカ人が見るときに思うこと、全然違うんだろうな。

今になって「アンコモン・プレイス」を買ったのは、ニューカラー風の選択をする選択眼を立ち上げるため。この写真集をみることで自分をなんちゃってショアにしてから、自分の撮った写真を選ぶことで、ニューカラーっぽい写真が選べるようになる気がしたのだった。そんなもんではないだろうな。

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