20年前の八島湿原

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相変わらず、古いスライド写真を接写しては廃棄しています。

1990年に買い替えたばかりの自家用車レガシィー・ツーリングワゴンを運転して、茅ヶ崎の自宅を深夜の12:00頃だったろうか出発して車山高原にある八島湿原に風景写真を撮りに行ったことがあった。会社の写真好きの仲間と八島の駐車場で合流して、だからといって一緒にそのあとBBQをするとかそんなこともなく、写真を撮り終えると、解散したと思う。いまは圏央道を北へ上がって、八王子ジャンクションから中央高速に入ればよいが、当時は圏央道はなかった。たぶんだけど、東名高速に厚木から入り、御殿場で降りて富士山を越えて、甲府のあたりから中央に入ったのではないか?深夜の高速に大型トラックがたくさん走っていて、深夜の高速に乗ることなどなかったから結構緊張したことは今も覚えている。

何十年も前に撮られたスナップ写真や古い街角写真には、撮られたときと写真を見る今との間に流れた時間によって、見え方が変わっていて、現代の見方がいろいろな感情を呼ぶので、効能が変化しながら写真はそこにある。でも風景写真と言うのは一体なんなんでしょうね?機器の進化による画質の差があることをさて置いてしまうと、もしかしたらこれと同じような霧の朝が、7月の八島湿原では同じようにやってくることもあるかもしれない。同じような、と書くのは曲者で、同じでは決してないんだけど。なにを些細とするかの視点の高さを上げてしまえば、「こういう霧の朝は毎年何日かあるんですよ、必ず」なのかもしれない。そう思うと風景写真と言うのは、(そこにレンズ効果によるディフォルメや圧縮効果を取り入れれば、撮影者の意図が浮き出るのかもしれないけどそれはそれでダサい気もするし・・・)所詮は現場でその風景を目の前にして五感で感応している状態に対して、勝れることはないのではないか?所詮は視覚だけの代行として、他の感覚は手足をもがれながらも、刻刻と変化する一瞬のそれを「不完全にも」留めているだけに過ぎないのではないか?それでもそれが価値を持つのは、その風景がダイヤモンド富士のように常時ではないから記録したことに価値があるのかもしれない。となるとそういう常時ではない、イコール決定的瞬間(定常ではない瞬間)を追い求めることに陥る。すると今度はその右往左往する人間の勝手な価値観に操られているような行動が、カッコ悪い気もしてしまう。ずらりとカメラが並んでみなが同じような写真を撮るのであれば、ほかの誰かにお任せしたい。

いや、この写真を撮りに行った30年前にはそんなこと考えたこともなかったです。みんなが綺麗!と言う美しい風景写真を撮りたかっただけでした。

だから風景写真とは、従来からそこにあるのに誰もそこに目を向けなかった「そこ」を見つけることか、あるいは誰も行っていないどこかに隠れている見つかっていなかった決定的瞬間(決定的場所)の第一発見者になること、そのどちらかが求められるのだろう。

とかなんとか書くけれど、綺麗はなにごとにも勝り、綺麗はいい。だからそれでいい。誰かと同じ写真であろうが、そこへ行き、五感で感じて、綺麗だから、そう「だから」写真に残したいと思って写真を撮った。少しの知識と少しの工夫でちょっとだけ自己満足できる「いい」写真が撮れる。それこそが綺麗な風景を前にしたもっとも大事なことではないか!