やっと晴れた日曜日

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 散髪、8:50並んで二番の客となる⇒スタバ、駅ビルに入っている眼科に行くための時間調整。ナイトロコーヒー飲む⇒眼科(最近目がチクチクゴロゴロしているので)10時のオープンと同時に。散髪同様二番客⇒薬局。その後に鎌倉へ行ってみる。電車は空いている、横に七人座れる座席に2~3人。写真は200枚くらい、コンデジで。たいした枚数ではないですね。結果として一番に選んだ写真が上の手すりの写真なんだから、笑えます。要するに自分が気に入る写真が写っていなかったのだけれど、それは撮ったときの余計な期待があるからに違いない。久しぶりに写真をまとめて撮っていて、勝手に力が入っているのか。それとも撮りたいことと撮ることの反応がうまく連携できずにいるのか。でもこうしてここに四枚の写真を載せておいて、もしかしたら後日に見ると、別の感想が生まれるのかもしれません。

 例年ならばもう海の家が立ち並んでいるのだろうか。海の家のない海岸に、三々五々、遊ぶ人たちが見える。人が散らばっている風景は大好きでよく撮るけれど、でもそれもなんだかもうマンネリ化しているのではないか。

 歩いていて、十年、二十年前にはもっともっとたくさんの写真を撮って、もっともっとかっこいい写真をたくさん撮ることができた・・・気がする。フイルムの頃はいまよりずっと撮影枚数が少なかったのに、今も当時撮った覚えている写真が何枚も頭に浮かべることができる。

 もしかしたら十年、二十年前、町を形作っている風景に、自分が同時代的にすんなり溶け込んでいて、どこを見ても町が概ね自分にとって居心地の良い場所だったのではないか。だからそこを歩いていても背景に写る町も、主被写体も、ほとんどぜんぶを肯定していたなかで撮っていたのではないか。それがだんだん自分は、自分が二十代三十代(せいぜい四十代)のころにあった町だけを「よきもの」として肯定して、それ以降の新しい町に馴染んでいないのかもしれない。すなわち、もしかしたら町の居心地が悪くなっているのではないか、と思う。まぁ、居心地が悪いと言うのは極端かもしれないが、好感をもって受け入れる町ではなくなった・・・という感じ。そんなことが気に入る写真が撮れなくなっている理由なのではないかな。

 いや、ここに書いたことはあくまで「もしかしたら」のことです。

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